生活の倫理

生活の感想

縛り付けて織り込む


いま『三体Ⅱ 暗黒森林』を読み終わった。

読み終わって、去年のちょうどいまくらいの時期にⅠの『三体』は読んだのだということを思い出した。人に勧められて読んだのだった。


インターステラー』も、同じ人に勧められて観た。なんだったら一緒に観た。Netflixで観た。『テネット』を観に行ったのは、『インターステラー』の監督の新作だったからだった。

 

『三体』も『インターステラー』も、後続の作品を追うようになるくらいに、好きな作品になった。


しかしその人とはもう連絡をとっていない。『三体』をきっかけにたまたま思い出しただけで、その人のことを考えることすら、全くなくなってしまった。

一年も時間が経つと関係は変化する。自分自身の考えていることや日々の生活も、一年前とはまるで違う。

それでも世界は一貫性を持って確実に一年進んでいて、小説の続編は翻訳されるし映画監督は新作を撮るし、私はそれを読み観る。

 


自分は一年間でまるっきり変わり、少なくとも変わったつもりになり、一方で進んでいるという実感はあまりない。ただ変わっている。

世界の側はしかし連続していて、固く結びつき合ってこぼれ落ちないように、大きな変化はなくとも確実に進んでいるように感じられる。

変わらない世界が全体として鈍く進んでいくのに、変わり続けている自分はしかしそれに取り残されている。

 

このところ、恐らく10月の終わりごろから、異邦人の感覚がある。世界がよそよそしいが、離人症とは少し違う。


2年ほど前に、1人で1週間ほど香港に住んでみたことがあった。尖沙咀に拠点を定め、電車に乗り散歩しご飯を食べて過ごした。

そのときの、目立ってはいないが馴染んでもいない、そして放っておかれている感覚は、好きでも嫌いでもなかったが、新しいという意味で良いものだった。

このときの感覚に近いものが、このごろ1人で過ごす、人と居るとき以外の全ての時間にある。

 


生活を縛る大きな集団に属していない生活が初めてだからかもしれない。

高校以前はそれは家族であり学校で、大学に入ってからは友人やサークルやバイトだった。大学の授業や勉強が占める割合は、微々たるものだった。


いまの生活は時間や空間的な拘束が、いままでと比べてありえないほどに弱い。

自分の将来したいこと、そのためにいまするべきことはいくらでも浮かぶが、そのほぼ全ての作業は自宅で1人ででき、そうするのが1番効率がよい。

週に2回は大学に行くが、時間の決まったタスクはそれくらいだ。授業が週2日であることは、大学4回生として取り立てて少なくはない。しかし、これ以外に習慣的なタスクが本当にない。これが地に足のつかないような感覚につながっているように思う。


大学院生に向いていないのかもしれない。すでにこのザマなのだ。院生の先輩にこの悩みを話しても、解決が見えなかった。実家で暮らしていたり、下宿生の先輩でも、この生活は全く苦痛ではないようだ。強がりには見えず、その気質は心底うらやましかった。

 

自分のある程度社会と繋がっていないと落ち着けない気質と、接続の薄いいまの生活、世界は私を置いて結びつき鈍く一定に進んでいくように見えること、あとは単に日照の少なさと気温の低さ。これらが一体となって私を襲う。

 

就職は恐らく、時間を拘束して私に安定した生活を送らせ、その業務を通じて私を社会に織り込み、生物としての私をとても元気にするだろう。

しかし私の最も高次の目的は、全ての苦痛の完全な除去と予防だから、自分が元気になったらまた、研究者の道を志してしまうだろう。

 


最終的にしたいことが研究だということがわかっているが、私には研究生活への生物的な適性があまりにない。


分析は済んだとして、それでどうする?


2020.12.2 22:45