生活の倫理

生活の感想

適度な趣味性


最近料理や食文化についての本をよく読んでいる。

今日読み終わったのは、三浦哲哉の『食べたくなる本』だった。これはあとがきでも筆者によってそう評されているが、「料理の本の本」だ。メタ料理本である。

 


特に丸元淑生については筆致がとても鮮やかになるのだが、この本の語り口からは、筆者が料理研究家たちに対して、畏敬とともに滑稽さも大いに感じていることが伝わってくる。

その一例として、「かつお節削りを削れ」(p.14) という丸元淑夫の指令がたびたび紹介される。鰹節を削るための鰹節削りの、その刃を自分で研ぎ、木の部分も真っ直ぐに保たれるようにカンナで削り整えたまえという指令だ。

 

また私も好きでよく読む有元葉子についても、もっぱら少量でそのまま飲んだりかけたり素材のよさを活かして使われるような最高級のオリーブオイルを、それを揚げ油にして揚げ物をせよという指令が紹介される。


これらの指令は、もちろん彼らの食へのこだわりからくるものなのだ。しかし筆者も感じ積極的に描いているように、そのような極端な食生活の実践は、滑稽なものにも感じられる。


食は高い趣味性を持つ営みだ。音楽や映画、読書などの趣味と並ぶものとして、料理やグルメ、お酒が趣味であることは自然に受け入れられる。衣食住への関心の高さには、美的な評価が与えられる。

しかし行きすぎた執着は、鰹節削りを削ることは、滑稽になってしまう。


この行き過ぎの線引きが、最近はよくわからなくなっている。行き過ぎた執着ではない適度な趣味性が、どれくらいなのかよくわからない。

好きなようにしたらいいのだとは思う。しかし職を持たずぶらぶら勉強している大学院生(予定)の立場である私などは、適度となる趣味性がとても低い水準なのではないかと、最近は感じてしまっている。

自分の趣味的な行動について、ぶらぶらしていないで論文の1本でも読め、その金で本を買えという気がしてしまうのだ。


例えば朝の15分を使ってメイクをして大学に行っても、肝心の哲学がまだ未熟なのだから、その15分を使ってもう少し予習をするべきだろう。そういうことになってしまう気がする。


もちろん学生だからといって一切の贅沢が否定されるなんてことはありえないし、程度の問題であって、何事もほどほどに楽しむのがよいのだろう。先輩の院生や研究者たちを見ていても、専門以外の趣味的な事柄にも精通している方が多いように思う。

しかしそれでもわからなくなってしまう。私のほどほどは合っているのか。君のほどほどはどれくらいなんだ。


特に酒という嗜好品について、これは人と飲むときだけ飲むという方針に基本的にはしていたが、3日ほど前のとても酷い二日酔いの影響もあり、考え直している。


酒を飲むと認知能力は落ちるため、自分だけ酒を飲んで相手が飲んでいない状況なら、自分は楽しくなりつつ明晰な相手と話せるので、これは1番よい状態だ。このようなことを、下戸の友人に言うことがある。自分勝手な話だが、それなりに本気でそう考えていた。

しかし、これは怪しいのではないか。

明晰な相手の方がよいというのはいいとして、自分が酒を飲んでおり認知能力が落ちていることは、楽しいことなのだろうか。


経験的にいうと、楽しいような気がする。楽しいことが多かったからだ。

しかし友だちと飲みに行くことと、友だちとパフェでも食べに行くことを比べると、楽しさにそこまで差がないような気もする。


ヴォルフガング・シュヴェルブシュの『楽園・味覚・理性』を読んでいる、著者の名前がかっこいい。この本はヨーロッパの嗜好品の歴史について書かれた本だ。ドイツ人なのでドイツについては少しだけ詳しく書かれている。嗜好品として香辛料や酒やコーヒー、タバコが、覚醒と酩酊という観点からプロテスタンティズムやカトリシズムと関連付けて語られる。

 

私はこれまで、趣味性や社交という観点から、酒と酩酊を肯定してきた。しかしそれらは、コーヒーや紅茶という覚醒をもたらす嗜好品でも満たされる。

全ての趣味的な行動を否定する必要はないが、覚醒の明晰さと勤勉は愛するべきだ。


そうとはいうものの、それでもたぶん、飲酒を全くやめるということはしないような気がする。

これは適度がわからなくなりつつも、それでもメイクをするし服を買うし美味しいご飯を食べることとは、少し違うことである気がする。

 

何事も適度に軽やかにやっていきたい。

その望みが果たされることはあり得ない。

 

 

 

(下書きに眠っていた記事を2020.12.2に公開)


2020.11.20 23:44