生活の倫理

生活の感想

社交による快楽の累乗

 

 

私の独我論者への恐怖は、自分の存在をものすごく小さなものにされるような、貫かれる無力感によるものだった。

同じような恐ろしさを2ヶ月前にも、また別の友人から与えられた。この友人は、私の心は認めているが、あらゆる快楽(と苦痛)に価値を認めていなかった。


この2つの恐ろしさが同じ理由を持つことに、山崎正和『酔いの現象学』の一節を読んで気がついた。

この恐ろしさの解明は、私の快楽の探究に繋がる。そしてその共有は、みんなの快楽の探究に繋がり、それは私の快楽の探究に繋がるのである。

 

 

私は快楽(と苦痛)に価値があると認めてる。そして、自分の快楽を多少は大きく評価しているが、他者の快楽もその価値を完全に認めている。


独我論をとる心理学徒の友人は後者を認めない。今回書くのは、前者を認めていない友人のことだ。それほど多いわけではない友人のなかから、道筋は異なりながら2人が、私の快楽の価値を認めていなかった。いったい私がなにをしたというのだ。

 

 

友人が快楽と苦痛に価値を認めていないと気がつく少し前に、最近功利主義にとても共感しているという話をしてくれた。それはいいねと話を聞いていたが、しかしどうにも違和感があった。功利主義の理解がおかしいわけではない。それを私が本当に判別できるのかという問題はあるが、とにかくそこには違和感はなかった。


この違和感は解消されないまま、近況などを報告し合ううちに、仕事についての話になった。彼女は学生時代からデザイナーとしても働いているため、仕事の話を聞けるのは面白いことだ。


彼女は仕事の目的について、働いて成果物を作り、その成果物がよいものなら他者に喜ばれ、それによって自分の評価は上がり、また次の仕事に繋がると話していた。

それはそうなのだろう、それで目的はなんなのかと聞くと、同じ内容を言葉を変えて伝えてくれた。彼女はコミュニケーション能力が高いのだ。

そうではなく、成果物も他者の喜びも自分への評価も目的には見えず、しかし仕事それ自体も目的ではない。彼女がデザイナーという職業自体を目的とする態度を批判することを、私は知っていた。それではなにが目的なのか。


そのことを伝えることができたとき、確かに目的はなく、そして実は自分は幸福や感情に価値を感じていないのだと教えてくれた。

ここには書かないが、具体的な考え方やエピソードを聞いて、本当にそうなのだろうと私には思えた。

 

 

それではなぜ朝からわざわざ電車に乗って、私と遊びにくるのかと聞いた。私は快楽のために友人と遊んでいるが、友人はそうではないのかもしれないと心配になったのだ。


遊ぶことも話すことも楽しく感じていることは信じてほしいが、しかしこの楽しさに価値は感じていない。話した内容やここで見た風景から、今後の自分の活動や成果物への良い影響があるだろう。また自分と遊ぶことでかなねにも何か新しいものを与えて、それが後に繋がるかもしれない。そうなればいいと思っている。そう話していた。

他者との交流の本質的なよさである。しかしそれでは私は嫌だった。そこにはやはり、最終的な目的もない。


私は私の快楽と、この友人の快楽を合わせて、この時間の喜ばしさを感じていた。相手もそうであると信じていたために、相手の感じる快楽は合わさったあとの私の快楽と相手の快楽を合わせたものであり、そのため高次になるにつれて累乗的に増幅するものに感じていた。

しかしその増幅は、友人が快楽に価値を感じていないことによって不可能になった。私はそれが悲しいのだと伝え友人は納得してくれたが、だからといってすぐにどうなるものでもない。

 


快楽の増幅は主観的にはしばしば発生するものであったため、私は友人やその他の関係から大きな快楽を得つつ、楽しく暮らしていた。


しかし私が無限に累乗されるような、増幅する快楽を感じられるのは、相手も自分と私の快楽とその価値を認めて、それを想像してくれるとき、そのときだけである。それが阻害されるために、他者の心を認めない態度と、快楽を重視しない態度に、深刻に恐怖を感じていたのだった。

 

これが最初に書いた、2つの恐ろしさの共通の原因である。このことには、曖昧にはおそらく私は気がついていた。しかしはっきりとわかったのは、飲酒の快楽と社交についての、以下の文章を読んだためだ。

 

 

この意識(自己を客体化する第二の意識)が快楽に耽溺する第一の意識を見下ろすことによって、自己の全体は幸福な自己を自覚できるのであった。

だがもし、自己が自己の幸福を確認して幸福になれるのであれば、そこに他人の自己がともに参加して肯いてくれれば、幸福はどんなに深まることであろう。(中略)社交の場とは、まさにこの意味で人びとが互いの快楽を確認しあい、確認する主体の幸福な目覚めを共有する場所だと見ることができるのである。

山崎正和『酔いの現象学』pp.196-7

 

 

酒を飲み快楽を得ながら、それを観察する高次の意識によって幸福を感じる。この高次に感じる幸福は、社交によって他者の快楽を観察しまた他者から快楽を観察されることで、幸福な目覚めと形容されるほどに深まる。


飲酒と社交についてここまで考えて実践していなかったが、この相互の観察によって深まる快楽は、社交一般に言えることであると思う。そしてそれこそが、私が友人関係において重視するものであるために、その阻害が大きな恐怖の対象であったのだ。

 

 

快楽の増幅は頻繁にあることと思っていたが、考えてみれば条件が多い。この2人の友人に限らず、これまであまり起きていなかったのかもしれない。

主観としては起きていたのだが、この増幅は主観のみで起こせるものではないため、起きていなかったと捉えることが正しいように思う。

単純な快楽ならば、それを私が感じた時点で価値であるため、あとからあれは起きていなかったとは思わない。しかしこれに限っては、おそらく起きていなかったのだ。

 


増幅を確かめる術はあるのだろうか。

 


2020.9.16 03:47