美もあるのかもしれない
価値について深刻に考えるようになって以来、ここ9ヶ月ほどの間、私は本質的な価値は快楽と苦痛にしかないと考えてきた。
これは直観の問題でもあるが、だからみんな違ってよいとは思わない。私のこの価値についての直観こそが正しく、そのため全員を説得してまわるつもりだった。
そしてこの価値に同意されたとき、その最大化を目指す行動をとらない理由として考えられるのは、優しくないか頭がよくないかのどちらかだと思っていた。
もちろん私自身も、常に価値の最大化を目指す行動をとっているとは全く言えない。その理由はやはり、私が優しくないか頭がよくないかのどちらかだと考えていた。
しかし私が最も強く得たいと願っている性質は、優しさと頭のよさだ。
そのために、なるべく価値を最大化することを目指すように動機づけられていた。
行動がそのまま道徳規範から動機づけられているのではなく、優しく頭がよいならばそんなことはしないのだからという、徳倫理的な回り道があった。
例えば、私は畜産物を食べることに嫌悪感は全く感じないし、美味しいので食べたい。
しかし優しく頭のよい人間は、さすがに畜産に与することをよしとしないだろうという理由から、なるべく与さないようにしていた。
しかしこの1ヶ月ほどの間に、この説明は間違っているというか、不完全なものかもしれないと思うようになった。
美もあるのかもしれない。
価値についてこの9ヶ月ほどは、道徳的なものばかり考えていた。そして道徳的に本質的な価値は、快楽と苦痛だけだと思っていた。
しかしこんなに道徳ばかり重視するのは、私にとって特殊な精神状態であると気がついた。
善くあることになど全く興味がなかった。宿題は出さなければいけない。人に嘘をついてはいけない。スカートは膝より短くしてはいけない。机の上に寝転んではいけない。すべてそんなことはないと思っていた。すべて守っていなかった。いまも守っていない。
天賦の道徳観によって、間違った規範を退けて生きてきた。単純に楽しく生きようとしており、快楽と美を重視していた。プロスポーツを例外として、大抵の趣味性の高いことが好きだった。
自炊で畜産物を断つことには、いまはもう辛さを感じない。殺すことに問題はないという特殊な観念を持っているために、魚は避けていないという理由もある。
しかし美味しいと噂される店に行くときには、少しの抵抗は感じながらも、畜産物も食べてしまっていた。
このときの内的な言い訳として、これまでは社会的な不安をあげていた。しかしそれだけなら、飲み物だけにしておくとか、いくらでも方法はある。なぜそうしないのか。
この味を知っておくことは、文化的素養を高めるために必要なことなのだ。そのような考えが自分のなかにあることには気づいていた。
そしてこれは私の、自分の利益を過大に評価してしまう傾向性のためであり、合理性の欠如だと考えていた。
しかしそうであるなら、自分の利益を過大に評価するなら、自炊で畜産物を断っていることに説明がつかない。自炊における傾向から、私が外食の際の判断において、畜産動物の苦痛を自分の快楽のみを理由に無視しているとは考えにくい。
ここで動物の苦痛を超えさせる価値として働いているのは、私が趣味性や文化的素養という言葉で認識していたものである、美なのではないか。
単純に快楽と苦痛を比較考量するとき、ほとんどいつでも合理的な判断を行い、畜産動物の苦痛を避けることができている。
しかし、美と苦痛を比較考量するときには、畜産動物の苦痛を避けない選択をしてしまうことがある。
これは美という善とは違う指標の価値を認めていたためかもしれない。
それでも、美のために他者の苦痛を容認することには、問題を感じる。
美が道徳とは異なる価値を持つとしても、それでも苦痛を超える価値には、なるのかもしれないがなってほしくはない。
しかし、私の自炊の際と外食の際の判断の不一致について、美という指標からの説明しか思いつかない。
私が善と美に対して感じる価値の大きさについて、これは時期によっても差があるのかもしれないとも思う。
最近は美のブームが来ているため、美味しいお店を巡りたいなという気持ちが復活してきてしまっている。服も家具も買いたいし、活字より雑誌や画集や図鑑をよく見ている。
しばらくの善ブームの反動かもしれない。それならば、食べ物以外は好きにしたらいいと思う。
しかしさすがに、畜産は発生する苦痛が大きすぎるので、好きにしたらいいとは思えない。とはいえいろんな美味しいものを知りながら生きていきたい気持ちが、強まってしまっている。
この気持ちをどうしたものかと思いながら、とりあえず畜産だけは避けた美に興味を誘導しつつ、暮らしている。
2020.8.23 17:38