生活の倫理

生活の感想

観念奔逸

 

この頃、頭の中がうるさかった。

 

風にゆれる植物をみながら、自分と周りのものの運動を考えた。道ゆく人をみながら、私の心の存在を認めない友人のことを考えた。蕎麦を茹で茄子を塩もみしながら、それに伴う善と悪の量を考えた。風呂上がりに肌に保湿剤を塗りながら、健康と美を同一視してしまうことの問題を考えた。

 

健康はそれを持つものを幸福にする。そこにさらに美の価値を加えることは、やりすぎではないか。健康なものにではなく弱っているものに美しさを与え、周りからのケアを促すほうが、そのほうが大きな善が増えるのではないだろうか。なぜ現に健康であり幸福なものに、美によるさらなるものを与え、現に健康でないものに、美を持たないことによる苦痛(少なくとも幸福の不在)を与えるのか。

適応という観点から説明はつく。より良くより長く生きる健康なものに美を感じ、関係性を築きたいと感じることは生存と繁殖に有利だ。

しかし生きるために生きている間はいいが、それが終わったならば、それは終わっているのだから、感じてしまう良さの抑制を考えるべきなのではないかと思う。

 

悪いとわかっているが、どうにもやめられない。そういうことはしばしばある。私もこれは確実に悪いとわかっていることでも、やめられていない。人間の美に好ましさを感じることも、そのなかのひとつだ。美に価値を感じること自体は、積極的な価値は多いほうが良いのだから、それはやめるべきだとは思わない。しかし人間の、変えようのない肉体に美醜を感じることは、全体の幸福を減らしている。人間の肉体への必要のない場面での評価をやめたいのに、やめられていない。

そのことを認めて開き直ることができない。

「こういう悪いところもあって、不整合なところもあるけど、これが私の複雑さだ。この複雑さは切り捨てるべきではなく、この葛藤は人間らしいものだ」

私にはそう考えることはできない。この態度は人間らしさではなく動物らしさだ。

 

このようなことを、風呂上がりに保湿をしているだけで考えてしまう。健康さと美しさの同一視は、肌の健やかさが美しさの大きな要因となることを例とすると、とても明確だからだ。

 

そのときしていることに関連はするものの、いちいち考えるには向かないことを、この頃いちいち考えてしまう。善悪や価値は自分の専門だから、勉強を頑張っているということなのかなと考えていた。しかし、これは観念奔逸という躁に現れる症状らしい。

秩序立ってはいるが止められず、またうるさいと感じるこの思考の流れは、私の場合は文章にして出しておくことで、ある程度収まりがつく。

そのままだったら毎回、肌を保湿するたびに同じようなことをいろんな道筋で考えることになる。しかし一度書いておくと、それが少し落ち着く。そのような観念が浮かんでも、この前ブログに書いたことを考えようとしているなと、立ち止まることができるようになるからだと考えている。

 

人に話すことは、自分の混乱を解くための大きな助けになる。

そして人に話すことで解けはじめた混乱は、おそらくはまた絡まることになるのだが、それでもその段階の混乱が解けたことを書き出しておいたほうが良い。

日常に紐づけて考えることは重要だが、繰り返してしまうと、その疲れによって新しいことを頭に入れにくくなる。理論と実践を分けることはできないし、分けるべきではないと考えているが、疲れ果てることは避けられるなら避けたほうがいい。

 

2020.7.19 9:53