生活の倫理

生活の感想

理論は机上で空回るのか?

 

善悪と似た意味での快楽と苦痛について、差し当たりの具体的な作業に支障が出るほどに、考えてしまっている。このような精神状態は、去年の暮れごろから今年の春にかけての、私の精神が大きく不調になる時期の直前にもあった。

 

そのときの、いまと同じような精神状態のきっかけは、功利主義と動物倫理を学んだことだった。具体的には伊勢田哲治さんの『動物からの倫理学入門』を読んだことだ。読みながら取っていたノートによると、去年の11/26から12/3にかけて読んでいたようだ。

この本を読んだ理由はおそらく2つあって、1つめに「君はたぶんこっちの方向だろうからこれを読むといいだろう」と池田さんが勧めてくれていたことと、2つめに吉沢先生に出会ったことだ。この人がそのように考えて、不便を受け入れてまでそのように行動しているのなら、それが正しいのだろう。そう感じてから学びはじめたので、一般に見られるようなこの分野に対する嫌悪感がない状態で始められた。このことはいまから考えると、とても良いことだったと思う。

この分野は私の精神をとても大きな不調におとしいれた。自分の大きく弁解のしようのない加害を初めて自覚したことはもちろん大きい。しかしそれ以上に、それでも自分の欲望を制御できないことに絶望した。

 

快楽と苦痛を感じることのできる全てのものの、快楽と苦痛にこそ価値があり、それ以外のものには本質的な価値はない。この考えは私の直観にものすごく合致している。それに加えて、その価値のためには合理的に考えなければいけないということに、方針としての正しさの直観もある。

この一番根源的な直観のことを、新川先生は抵抗できない直観と呼んでいた。先生にとっては、意識と世界のつながりが抵抗できない直観であり、最も守りたいものなのだろうと思う。この抵抗できない直観が、何を考えて生きていくかについて大きな効力を持つのだろう。

 

哲学や形而上学は、特に私が好んでいる分析哲学という大きな括りに属するものは、実際の社会において意味がないと考えられることがある。私も例えば、新種の昆虫を見つけることにどんな意味があるのかわからない。楽しいのだろうとはわかるが、目的があまりわからない。だからある学問について、それを外から見ると意義が理解しにくいということは理解できる。

しかし、哲学者が哲学を実際の生活と分けているように見えるとき、そこでは何が起きているのだろうか。

 

動物倫理の話をすると、反射的に警戒のような姿勢をとらせてしまうことがある。だから最近は、直接的にその話はあまりしないほうがいいのかもしれないと考えている。話をしないほうがいいというのは、大きな善悪の話ではなく、私の生活上の問題としての場当たり的な指針だ。その偏見を受け止める強さは私にはまだない。

そしてまた、私は私自身で納得できるほど倫理的な生活ができていない。倫理理論の正誤について話すために、そのときに取る立場に話者が真に同意しており完全に従っている必要はない。

しかしこの分野に限っては、そっちこそどうなんだ主義と呼ばれる詭弁的な論法に、私はダメージを受けてしまう。このそっちこそどうなんだ主義者は、この分野のことを考え話すとき、私のなかに繰り返し現れ、私の私への信頼を失わせる。この信頼は、私の精神にとって日照と睡眠の次に大切なものだ。そのため自分の精神の健康のために、ひとりでいるときは実践したほうが良いことが、この8ヶ月ほどでわかった。ひとりで家でご飯を食べるときは、何の問題もなく実践できるからだ。しかし人といるときは、気にしないようにしている。気にしないようにしてしまっている。社会的な不安のためだ。

このブログをわざわざ読んでくれる人は、私が関わりを持っている人のなかでも、私に好意的で興味を持ってくれている人なのだと思っている。おそらく私はこれからも、あなたたちに嫌われることを恐れ続ける。私はあなたが私が正しいと思う理論に同意しなくても、そのことによってあなたを嫌いにはならない。それと同じように、私がどんな理論に同意していても、そしてそれなのにその理論に従っていないときがあっても、それを非難しないでほしい。

これはそうしてほしいというお願いであり、そうするべきだということではない。

 

去年の年末はこのことを突き詰めたために、自分を含めた人間への信頼を失った。世界から光がなくなった。いまも光はあまりないと思っているが、光を目指す指針が少しだけ固まってきたので生きられるようになってきた。

 

知らなければそれで済んでいた非常に大きな恐怖が与えられ、それに対処しなければ生きられなくなること。これは宗教の構造とどう違うのだろうか。

 

もしかしたら、哲学者がその理論と生活とを難なく分けられるかどうかは、抵抗できない直観や非常に大きな恐怖といったものの解決を目的としているかどうかによるのかもしれない。これはどちらがいいということではなく、ただ起点の違いがあるという理解だ。

抽象的なことをひたすらに論理的に考えて答えを出そうとする姿勢は、一見すると大きな恐怖の解決を目指していない、生活と離れたものに感じられる。しかし、実は大きな恐怖の解決として、合理的な手段を取ることは全くおかしなことではない。自分の複雑な感情や恐怖を、複雑なままで表現することにも意味はある。しかしその解決を目指すならば、多少単純化してしまうかもしれないが、論理を固めることにはとても大きな意味があるのではないかと思う。

 

2020.7.19 13:46