生活の倫理

生活の感想

独我論と倫理

 

 

友だちが天然の独我論者だった。

 

 

3ヶ月間、週に5日、1日3回2時間弱、単純に計算して120時間話して、そのことがたったいまさっき、いまから20分ほど前にわかった。

 

 

 

 


独我論者をはじめて認識した。論理的に可能なだけで、そんな信念を持つ人などいないと思っていた。

 

 

 

デカルト永井均も、哲学体系を豊かにするために可能な立場を取ってくれているのだと、はっきりそのように認識していたわけではないが、漠然とそのように考えていた。

 

 

 

この考えは独我論というのか。デカルトを読むといいのか。名前がわかって嬉しい。

そう言った。

 

これは哲学的に可能な立場への、思考実験的なコミットメントでは全くない。

 

 

彼女が主観しかないと思うと言ったとき、なぜだか私は、私の主観も認めてくれていると思ってしまった。

それなら世界がなければ関係が不可能になってしまうということまでは、彼女はこの種のことに興味がないから、考えないのだと思っていた。

 

彼女は私の主観の存在を認めておらず、それゆえ整合的な世界観を持っていた。

 

 

 

彼女は世界という体系に、心理学という体系に、私という体系に、それに対して興味を示していただけだった。

 

 

彼女にとって私は関数だ。プログラムだ。システムだ。

 

 

 

そんなものになぜ興味を持つのだ!咄嗟にそう思ってしまったが、存在を信じていない体系の仕組みに興味をもつことに、仮想とわかりながらゲームを楽しくプレイすることに、なんの矛盾もない。

 


そんなことは知っていた。

 

 

 

 


でも、本当に?

私の話したことは、だからあなたには影響しえないのか?

 


「存在者より数として圧倒的に多いはずの非存在者の利益を、私は救いたいが、私は存在者の側に立っていて、だから私にとっては不利益の方が多いんだけど、でもその世界の方がいいから、なんとか私が非存在者を守るんだ」

 


「それはどこからものを見ているの」

 

 

 

「それをするのが悪いことだとわからずにそれをしている者より、私はそれをすることがどれだけ悪いことかわかっているのにしてしまっているんだから、私が1番悪いんだ。しかしそのことがわからないわけではないだろうに、罪悪感を感じていないように見える者もいて、あれは対外的ななんらかの目的があるんだろうか。整合性に関心がないのだろうか」

 


「真面目だね。繋げて考えなくてもいいんじゃないの」

 

 

 

 

 

 

思想的な転換点があった。

 


私はこれまで心の哲学にあまり真剣に向き合っていなかった。

 


議論としておもしろいと感じながら、

「そこを考えても世界は良くも悪くもならなくないか?」

そう思っていた。

 

 

 

その揺らぎと恐怖が、不信が私に向けられてはじめて、大変な問題として感じることができた。

 

 

 

怖いよ、なんでだ、やめてくれよ。そう言っても、「そうかこの子はこれを怖いと感じるのか」そう思うだけなんだろう。

 


彼女は光に向かう性質を持っている。

システムでしかない私を悲しませないように、自分の主観を明るいものにするために、間接的な配慮をしてくれるだろうとわかっている。

 


だからといって、自分はあなたの存在を認めるよと言ってしまわないくらいには、私のことを知ってしまっている。

 

 

 

もうだめだ。みんなそうなのかもしれない。私は他者の幸せを、自分と同等とまではまだ言えないが、確信を持って大事なことだと思っているし、私は自分の根本から他者の快楽と苦痛に価値を感じている。

でもみんなは違うのかもしれない。悲しいことに、そう考えたほうが辻褄があう気がする。

 


規範の正当性を認めながら、その規範に従わず、従わないことに一切の罪悪感を感じていないような態度を見ることがある。

 


これは程度の差こそあれ独我論なのだと考えると、辻褄があってしまうように、いまの私には感じられる。

 

 

 

私が私の真だと思う立場に従った行動ができないことも、どこかに懐疑があるから、どこかでどうでもいいと思っているから、そうなってしまうのかもしれない。

 


この線でいくなら、規範を理解する知性をもつ存在は、自分以外の世界の存在への確信度によって、その規範の重要性の認識を変えるのかもしれない。単純な対応ではないが、他者の利益の重要性を確信して完全に倫理的に振る舞う者にしか、世界の実在は確信しえないように感じる。

 


少なくとも、私には私だけではない世界の存在への確信があるのに、完全に倫理的に振る舞えていないのだから、どこかに欺瞞があることは確かだ。自分の利益を大きく評価していまうバイアスは確実にあるが、それだけでは説明できないほど私は倫理を無視しており、それは世界への不信なのかもしれない。

 


私が倫理的に行動しないことは、逆接的に私の世界への不信を高める。

 

 

 

 


生命倫理存在論と同等の気持ちを持って、これからは心の哲学にも向かうことになると思う。

 

 

一歩ずつ私の世界は生きづらいものになる。しかしその生きづらさを、その真実を見つめ抜いて初めて、より善いものを目指していくことができる。

 


真実を見つめる過程で私の世界は悪いものになっていくが、それが真実なのなら、それを受け入れた先にしか光はない。

 

 

2020.7.1 00:25