もずくと功利
最近もずくにはまっておりよく食べている。
今日も3個パックのもずくを6個、つまり2セット分食べた。
もずくはえらい。これだけ食べても1パック9カロリーだから54カロリーだ。カントリーマアム1枚分。
えらいなえらいなと思いながらもずくをすすっていたが、もずくのなにを私はえらいと感じているのだろう。
カントリーマアムだって美味しい。最近食べていないけど。しかしカントリーマアムはえらくない。
なぜならカントリーマアムが美味しいことは当たり前だから。
それではもずくが美味しいのは当たり前ではないのか。恐らくそうだ。そしてこの当たり前ではなさに、えらさの内容がありそうだ。
美味しくて当たり前だと思うものの要素を考えてみる。そうすると私は「①カロリーが高い②値段が高い③動物性である」という要素を、美味しくて当たり前のものとして考えているようだ。
このどれにも該当しない、例えばきゅうりなんかも美味しい。しかしそれは当たり前ではない。きゅうりもえらいと私は思っている。当たり前でなければえらいと考えるのかもしれない。これはなぜなのか。
おそらくこの「当たり前」という表現がすこし曖昧でずれていたのだ。そのまま「えらくない」と表現したほうが正確だったかもしれない。
そうすると先ほどあげた美味しさが当たり前になる3つの要素は、えらくない3つの要素ということになる。えらくないのは、カロリーが高いこと、値段が高いこと、動物性であること。
どちらかというと痩せたく、お金もなるべくなら使わなくていいほうがよく、動物性食品は食べないほうがいい。
このように対応する自分の(高階の?)欲求に添いながら、それでもなお美味しさという快楽を与えてくれるというところに、食べ物としてのえらさを感じていたのかもしれない。
つまり美味しさではない善の(少なくとも悪ではない)性質を持つ食べ物に、美味しさとは重ならないわけではないが違う価値として、えらさという基準で価値を与えてたようだ。
このえらさは美味しさとは違う基準ですが、しかしえらさを感じながら食べるものは、そうでないものよりも美味しく感じる。
つまりこのえらさという概念は、私が食べ物に対して下駄をはかせる気持ちでもあるのかもしれない。
実際人間の脳は脂質と糖質に美味しいと反応してしまうと聞いたことがある。
カロリーの低い食べ物は、そういったマクロ栄養素的な美味しさの恩恵にあずかれない。そんな境遇にある野菜や海藻には、えらさという付加価値を加味して評価したい。アファーマティブアクションだ。
その意味でえらさは是正的に付与され平等主義的に見えるが、目的として全ての食べ物を平等に扱うことを目指しているわけではないようだ。
先に述べたように、他の悪を発生させない(もしくはより少なく発生させる)からという理由で、えらさは付与されるようだった。
つまり功利を増進させるための装置なのだ。
味覚的な美味しさも、太らないことも、あんまり働かなくていいことも、他者を搾取しなくていいことも、最後のものは特に量として大きいですが、すべて良いことだ。
そのような価値基準を上手く内在化していけると、自分の重視したい2階の欲望に沿った選択肢が、そのまま1階の欲望の働きとして選べるようになり、好きなように過ごすだけで結果的に良いことをしてしまう状態になるのかもしれない。そうなると有徳でもありそうだ。
私はまだそのような自動善行状態には入れていないが、食べ物に感じているこのえらさはもしかしたら、内在化と自動化の第一歩としてなのかもしれない。
もずくはえらい。
2020.5.28 22:50