生活の倫理

生活の感想

自殺の何が"悪い"のか

 

死と自殺の問題は、私が哲学を勉強する2つの大きな動機のなかの1つだ。

知識も自分の考えの整理もまだまだ足りていないが、いまの時点での考えを書いておく。

勉強がまだ本当に足りないので、語尾に「思う」「気がする」「みえる」という主観的なものが多くなったが、これは「いまのところ私がそう思っているだけ」ということを表す逃げ(と誠実さ)だ。


日常的に「死は悪いことである」と述べられ考えられるとき、一般に以下の4つの害をまとめて1つのものとして扱っているように思える。①死のそれ自体の害

②死に伴う本人の身体的な苦痛の害

③死に伴う本人の精神的な苦痛の害

④死に伴う周囲の精神的な苦痛の害

そしてこのように分類してみると、①のみが死の悪さであり、②③④は二次的なものにみえる。

そして自殺に限って考えたとき、①以外は取り去ることのできるものだと思う。


まず②本人の身体的な苦痛の害について、これは自殺幇助を認めることで限りなく小さくできると思う。表現に問題はあるが、安楽死で自殺すればいい。

現在積極的安楽死は一部の国や地域で認められているが、その適用は治癒不可能な病や老いを抱える人間のみに、さらにその範囲でもとても厳しい条件を満たした場合に限られる。

積極的安楽死の適用範囲の拡大や規制の緩和は、望んでいないのに周囲に迷惑をかけるからと安楽死を選んでしまうケースなど、問題も容易に考えられるが、それでもそれにより減らせる苦痛はある。

次に③の本人の精神的な苦痛の害について、熟慮の末に自殺がもっとも合理的な解決だろうと納得しそれを選んでいる人間は、これをほとんど取り去ることができる。それでも残るのは、②と④への心配という二次的な(そもそも②と④も二次的なものであるということを考えれば三次的な)ものだろう。そのためそれらが解決されればここに問題はない。


最後に④の周囲の精神的な苦痛の害について、これも循環するようだが、②と③が解決されたとき、とても少なくできると思う。それらが解決されているとき、残された者の苦しみは、その本人と過ごせたであろう好ましい経験の喪失のみとなる。現状④の苦しみは、死んだ当人の苦しみを想像すること、そしてそれを救えなかった罪悪感が大部分を占めているだろう。当人が苦しんでおらず、そして当人も他者の苦しみを望まないのだから、苦しむ必要はない。

もう彼/彼女とあそべないのだなという程度の、1番大きくても失恋と同程度の悲しみが正当かと思う。

 

つまり、他者から深刻に害され追い込まれたのでない、主体的に選択した自殺の場合、本当に生まれるべき苦しみは本当に少ないものになると思う。①の苦しみと、③④による若干の苦しみで済む。

そして①の苦しみについて、これは異議が容易に想像できるが、私は0だと思っている。

そのため②のように安楽死が認められ、④のようにこの記事の考えが周囲にも納得されたなら、私は死ぬことはそんなに悪くないことだと思う。

例えば10秒後に「安楽死の処置を受ける権利」と「私を知る人のこの記事への同意」が同時に与えられたなら、私は10秒後に死んで構わない。どちらかというとそれは望ましいことに思える。

そしてこのような考えが受け入れられたとき、世界は出口が整備されたという点で、より良いものになる。

自殺をしたいと考える者に対して、それを止めるために周囲が援助し環境を改善させることはもちろん良いことだ。それによって自殺を望まなくなるなら、その者は追い込まれていただけであり、その状況からは救われた方が良いからだ。


しかし環境に関わらず、相対的には悪くない生を送っていても、それでも死んだ方が良いと考える者に対しては、苦痛を伴わない方法での死を提供することは必要なことではないだろうか。

死んだ方が良いと穏やかに納得している者の望みは、苦痛の少ない形で叶えられるべきではないだろうか。


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この記事は木村花さんの自殺に触発されて書いたものだ。しかしここで書いた自殺の無害さは彼女の場合には全く当てはまらない。

彼女の死は自ら選んだ自殺ではなく、他者の悪意により追い込まれ選ばされた自殺だった。分類し書いてきた全て種類の、とても大きな害が彼女や他者に降りかかった。

彼女の死はとても痛ましくまた許されないことだ。

ご冥福をお祈りします。


2020.5.23 23:26