生活の倫理

生活の感想

パンデミックとレーシック

 

某疫病の流行もいよいよだなという感じですね。このような世界で、みんなはいかがお過ごしでしょうか。


私はといえば、緊急事態宣言の発令が決まった昨日、梅田でレーシック手術を受けていました。54万かかった。破産。


視力が本当に悪く(右0.02 左0.03)、コンタクトか眼鏡なしでは比喩ではなく生きていけないこと。

度が強いので眼鏡をかけると屈折で目がめちゃくちゃ小さくなり、それが嫌なのでほぼ毎日コンタクトを使うこと。

コンタクトを洗うことが日常生活のなかで最も嫌いな作業であるため、いつでも捨てられるワンデーを使っており費用がかさむこと。


この3点の合わせ技で、ICLかレーシックか、なんらかの視力回復医療を受けたいとは平時からそこそこ強く思っていました。

ピアスだったり脱毛だったり、自分の身体に手を加えることにあまり抵抗がないことも一因だと思います。

しかし1番受けたいと思っていたICLは50万ちょい、レーシックでも20万くらいはかかるようなので、まあ社会人になってからかなと思っていました。学生の50万ってほら、社会人の500万じゃないですか。

そう思っていたのですが、なぜいま540万である54万を払ったかというと、1つには大学院に行くため自分がいつになったら働くのかわからないということもあるのですが、主な理由はコロナの流行から所有の不確かさを再認識したことです。

 

こう書くと私がすごく悲観的で不安症のようですが、コロナに際しての現状としては、買い溜めに走ったり過度に感染を恐れて精神的に不安定になったりはしていません。

マイプロのセールでまとめ買いしてあったプロテインと、実家から送ってもらった米だけで半年くらいは生きられるし、ネットとインフラさえ止まらないなら向こう3ヶ月家から出るなと言われても受け入れられる気がしてます。

 

 

精神は不安定になっていないと述べたところで、ではなぜコロナの流行からレーシックを受けるに至ったのか。

 

話が少し逸れますが、私は高校の半ばくらいまで、火事にはあうものだと思って暮らしていました。火事を特に恐れていたわけではないのですが、自分や家族の持ち物はいつでも燃えてなくなる可能性が、一生に1回くらいの確率であるものとして考えていました。持って逃げようと思っていたものは、時期によってゲームボーイだったり、PSPだったり、PCだったりしました。


本かネットか誰かに教えてもらったか、火事にあう確率はとても少ないことを知りましたが、長年の意識からか、それ以降も人と比べて持ち物にそこまでの信頼を寄せずに生きてきた気がします。火事にはあまりあわないことは理解しましたが、それでも物はいつかなくなるだろうと。


この持ち物に対する感覚を、国家や社会、貨幣のような大きなものに対しても私は同じように持ってます。そしてこの感覚は正しいとも思っています。

自分の意識は、これがなくなれば死と同義だと考えているので最後までなくならないものですが、あとは意識より少し落ちますが自分の身体くらいしか、所有として信頼できるものはない。

こう書くと、この言葉は好きじゃないですが、「思想強い」感じに見えると思います。しかし自分の意識と身体を信頼しているだけでも私は穏当なほうです。

 

そのような考えを持っていても、特に悲観的ではないので、コロナ以前はコンタクトや眼鏡が簡単に入手できないような世界に近い将来なるとは思ってませんでした。

いまもそんな世界になる可能性は高くはないと思っています。


しかしないわけではないなと思いはじめました。


最後まで持っていられるものとして、自分の目に課金することはとても合理的な選択だろうと思います。

 

いま私はこのように考えて、このようにしたということをただブログとして書きたかっただけで、不安を煽りたいわけではありません。

私の場合は元から受けたかったので時期を早めただけで、コロナで長期的に眼鏡やコンタクトの入手が難しくなるほど大きく世界が変わることもないだろうと思っています。

またレーシックには後遺症や合併症のリスクがあるようですし、私にも後からそのような症状が現れないとも限らないので、この記事はレーシックを勧めるものではなく、他の記事と同じく日記またはエッセイです。

 

2020.4.7 21:05