『JOKER』Todd Phillips
あまりに話題だから、これは予備知識が増えてしまう前になるべく早めに観なくてはと思っていた。
そんななかで、昨日の夜の予定がちょうどよく流れたので観てきた。
チケットと飲み物とポップコーンで1800円なのでレイトショーは最高。
観る前に主にTwitterで「俺(たち)はジョーカーになり得る」みたいな感想をよく見た。
だから暗い人間がピエロメイクして悪党(社会的強者)をバンバン殺すようになるみたいな話かなと思っていた。
その予想は当たってるは当たってるんだけど、ジョーカーを観て「自分もジョーカーになり得る」なんてことは思えなかった。
そう思ってしまってはいけないと思った。
私たちは社会的強者だ。
いまは学生の身分でそんなにお金はないかもしれない。でも間違いなく私たちはジョーカー側ではなく、ウェイン側とまでは言いにくいが殺される3人のエリート社員の側だ。
あるいは、欲望され拒絶する女性(この映画では隣人の女性)の側だ。
自分の被害について人はよく認識できるけれど、自分の加害について人は認識することが難しい。
自分の受けた被害、虐げられた経験からジョーカーに感情移入する。そうして美しく映像化された弱さに自己投影して気持ちよくなることは簡単かもしれない。
しかし選民意識や思い上がりではなく、事実として、自分が恵まれた環境にあり能力があることを認識することは大切だ。
弱者ではないのに、自分を弱者だと主張してしまうことは弱者に提供されるべきだった有形無形のリソースを奪うことになる。
自分のことを不当に低く見積もることは謙虚でも、卑屈ですらなく、無責任なことだ。
生きている限り必ず他者に害を与えてしまう。そのことを念頭に置くことで、減らせる加害はある。
ジョーカーを傷つけた人間には、必ずしも悪意があったわけではなかった。ただ想像力が足りず、自分の加害に考えが及ばなかった。
格差や階級闘争だったり集団心理、映像美やジョーカーのビジュアルと煙草のかっこよさ、他にも語るべき点はあるだろう。
しかし私はそれらよりも、被害/加害の意識の非対称性と加害の意識の重要性を語りたい。
加害の意識を持つには想像力が必要だが、この想像力を持ちまた加害を減らそうと努力するには、頭の良さと、他者の痛みに悪を感じる心が必要だ。
私は自分の幸福を1番に評価してしまうけれど、他者のそれにも十分に価値は感じる。
理想としては他者の幸福も自分のものと全く同じように評価したい。できていない。
しかし他者の痛みに悪を感じない人間というのは意外なほど多く、他者の幸福をマイナスにさえ思う人がいる。
この場合はいくら頭が良くても、加害への想像力が働いても、その加害を避けない。
ジョーカーに出てくる「金持ち」たちは、想像力が働いていない場合も多いが、その他はこの状態だったように思う。
頭が良くて他者の痛みに悪を感じる、つまり賢く優しい人間が、全く出てこなかった。そういう人間がいなかったことがジョーカーの誕生に繋がった。
私たちは強者であり、ジョーカー側ではない。
そのことを正当に認識して、賢く優しい強者を目指しましょう。
2019.10.10 15:11