愛は滲んで範囲を広げる
私は野球を観ない。
野球が好きな人々は、大抵ある特定の球団を応援している。
その球団に所属している選手も好きで、かつてその球団に所属していた選手にも愛着を持つことが多い。
それはその球団に所属していた頃にその選手のことが好きになったからだろう。
球団への愛がその選手に広がり、その球団を離れても続く。
野球が好きな人々は、大抵の場合親などの近しい人が好きだったから観るようになったと言う。
近しい人が好きなスポーツを一緒に観ているうちに自分も好きになっていく。
それはもちろん触れる機会が多かったということにも原因はあるだろう。
好きな人が好きなものが好きになる経験は、多くの人にあるのではないかと思う。
そして、もしその人のことを好きではなくなったとしても、影響を受け好きになったものへの愛は変わらないことが多い。
人への愛がその人の好むものにまで範囲を広げる。
愛は滲んで範囲を広げる。
今回のタイトルに使ったのは、私がとても好きでずっと覚えている言葉だ。
ふとこれはどこで見た言葉だったか、そう思って調べてみたけれど、それらしいものに辿り着かなかった。
それらしいものに思い当たったら教えてください。
滲んで範囲を広げる愛は、ナショナリズムレイシズムといった差別感情に繋がるようにも思えるかもしれない。
しかしその愛は実は滲み範囲を広げていっていないのではないかと思う。
身近な人への愛から国家へ人種へと愛を広げられるならば、世界へ人類へと広げられないとは考えにくいから。
滲んで広がらない愛は、対象を鏡にした自己愛でしかない。
自分を愛してくれる近しい人への愛、自分の所属する集団への愛、自分の住んでいる国への愛。
それらが自分を起点にしている限り、範囲を広げていくことは難しい。
関係性を超えた、対象を好ましいと思う感情を最も大きな理由とした愛を大切にしていきたい。
愛だとか世界だとか綺麗な感じのことを書きすぎたけど、最近は本当にこんなことを思いながら生きています。
それでは。
2019.10.07 16:30