生活の倫理

生活の感想

タピオカと誠実さ

 

 

夕方ごろに六甲道商店街の新しいタピオカ屋さんに行った。

 

めちゃくちゃにお腹がすいていたので、ジャスミンミルクティーのミルクフォーム乗せという重めのメニューの、しかもLサイズを飲んだ。

タピオカを飲むのは久しぶりだから、少し値段は高くなるけど盛っちゃおうという気持ちだったけど、タピオカも別料金のようで710円になってしまい涙がでた。

でもお酒2杯飲むより断然美味しいし幸せになるから全く問題はなく最高であった。

 

その店を初めて見つけたのは、ちょうど昨日飲み会に向かう前だった。だからその席で耳より情報として、商店街にタピオカ屋さんができたことをお知らせした。

 

それに対して、「出たタピオカ笑」という反応をされ、ああインターネットの人たちは実在するのかと思った。

どこかで(主にTwitterで)見たことあるような言説をそのまま音声で聞けた。

「バエのために超高カロリー超低原価のタピオカに行列する奴ら笑」みたいな、いま文字にしていても嫌だなと思うような態度が実在した。

 

私はタピオカは大好きだけど、例えばラーメンも大好きで神戸で美味しいと聞く店はほとんど食べていて、京都くらいまでならラーメンを食べることを目的に出かけて行ったりもする。

なぜいまラーメンの話をしたかというと、「美味しいから食べる」のはタピオカでもラーメンでも全く変わらないということをいいたかった。

タピオカではなくラーメンなら、「そうそう知ってる〜!まだ行ってないんだよね〜!友達は行ってたけど美味しいって言ってた!今度行こうよ〜!」と、タピオカに対する女子のように言える君たちじゃないか。

 

自分の知らないことに対する態度が攻撃である人間をタピオカブームは顕在化させる。

 

その態度は好奇心や、世界の広がりの欠如だ。もっと言うと、未知への不寛容は理性的な態度ではない。もちろん常にその態度をとってしまう訳ではないだろうが、その態度を取ることは自分にとっても益のないことだという認識は必要だ。

 

タピオカが嫌いなことそれ自体に対して何か言いたい訳ではない。

むしろ人の嫌いな食べ物を聞くのはとても好きだ。嫌いな食べ物はみんな説明できるような理由があって明確に嫌っていて、本当に嫌そうに話してくれて面白い。

 

そういう話とは違って、この場合は実際君たちはタピオカを飲んだことがないんだし、知らないのに嫌うのはおかしいでしょう。食わず嫌いとも違うようだった。

そういうことを今日タピオカを飲みながら改めて考えてた。

 

未知のものへの、未知だということを根拠とする攻撃の態度が私は嫌なんだなと。

理性と誠実さを欠いたものだから。

 

いま本当に思っていて、友達にも折に触れて言ってるが、誠実で親切で明るいこと、これ以上に大事なことはない。

 

面白かったりセンスが良かったりいろんなことを知っていることを、誠実で親切で明るいという特性以上に、少し前までは重視してたように思う。

面白いとかセンスがいいとか知識があることも、もちろん良いことだしそういう人間は好きだ。

しかしそんなことは個性や性格の問題なのであって、誠実さや親切さや明るさはそれよりも、質的にも異なって大切なことだ。

 

誠実で親切で明るい人間になりたいと強く思っている。

 

私は誠実であるとは言えない。誠実であろうと思う気持ちは強くあるので、誠実でなさを誇るよりは遥かに良いと思っている。しかしやはり誠実だとは言えない。

親切ではある。少なくともそう思う。

明るいかどうかは、人は相手によってペルソナ的な意味で態度を変えるので一概に言えない。

そんなに多くはないが私が暗いと形容されるときは、それは変わっているということを言いたいときが多いように思う。

それはただの言葉の間違いだが、私は中学生のころなんかは、変わっているという意味で自分は暗いと深刻にではないが思ってしまっていたような気がする。

しかし私は最終的には、自分と他人の幸せを本気で願っている本当に明るい人間だ。

 

誠実であろうとしていて、親切で、自己認識としては本質的に明るい人間。

 

 

誠実さを考えていると、他人を単なる手段ではなく目的として扱うべきだというカントの理念が浮かぶ。

 

そういえば今年の書き初めは、字面もいいし良いかと思い「真善美」にしたのだった。

 

これはここまでで書いている誠実で親切で明るいこととは違うが、人間としてのよさという意味でギリシャももう少し身を入れて勉強すると楽しいかもしれない。

 

学ぶべきことはあまりに多く、しかしおそらく院には行かないし行かせてもらえない。

 

2019.08.03 22:38