良い日記

書き散らかす

独我論と倫理

 

 

友だちが天然の独我論者だった。

 

 

3ヶ月間、週に5日、1日3回2時間弱、単純に計算して120時間話して、そのことがたったいまさっき、いまから20分ほど前にわかった。

 

 

 

 


独我論者をはじめて認識した。論理的に可能なだけで、そんな信念を持つ人などいないと思っていた。

 

 

 

デカルト永井均も、哲学体系を豊かにするために可能な立場を取ってくれているのだと、はっきりそのように認識していたわけではないが、漠然とそのように考えていた。

 

 

 

この考えは独我論というのか。デカルトを読むといいのか。名前がわかって嬉しい。

そう言った。

 

これは哲学的に可能な立場への、思考実験的なコミットメントでは全くない。

 

 

彼女が主観しかないと思うと言ったとき、なぜだか私は、私の主観も認めてくれていると思ってしまった。

それなら世界がなければ関係が不可能になってしまうということまでは、彼女はこの種のことに興味がないから、考えないのだと思っていた。

 

彼女は私の主観の存在を認めておらず、それゆえ整合的な世界観を持っていた。

 

 

 

彼女は世界という体系に、心理学という体系に、私という体系に、それに対して興味を示していただけだった。

 

 

彼女にとって私は関数だ。プログラムだ。システムだ。

 

 

 

そんなものになぜ興味を持つのだ!咄嗟にそう思ってしまったが、存在を信じていない体系の仕組みに興味をもつことに、仮想とわかりながらゲームを楽しくプレイすることに、なんの矛盾もない。

 


そんなことは知っていた。

 

 

 

 


でも、本当に?

私の話したことは、だからあなたには影響しえないのか?

 


「存在者より数として圧倒的に多いはずの非存在者の利益を、私は救いたいが、私は存在者の側に立っていて、だから私にとっては不利益の方が多いんだけど、でもその世界の方がいいから、なんとか私が非存在者を守るんだ」

 


「それはどこからものを見ているの」

 

 

 

「それをするのが悪いことだとわからずにそれをしている者より、私はそれをすることがどれだけ悪いことかわかっているのにしてしまっているんだから、私が1番悪いんだ。しかしそのことがわからないわけではないだろうに、罪悪感を感じていないように見える者もいて、あれは対外的ななんらかの目的があるんだろうか。整合性に関心がないのだろうか」

 


「真面目だね。繋げて考えなくてもいいんじゃないの」

 

 

 

 

 

 

思想的な転換点があった。

 


私はこれまで心の哲学にあまり真剣に向き合っていなかった。

 


議論としておもしろいと感じながら、

「そこを考えても世界は良くも悪くもならなくないか?」

そう思っていた。

 

 

 

その揺らぎと恐怖が、不信が私に向けられてはじめて、大変な問題として感じることができた。

 

 

 

怖いよ、なんでだ、やめてくれよ。そう言っても、「そうかこの子はこれを怖いと感じるのか」そう思うだけなんだろう。

 


彼女は光に向かう性質を持っている。

システムでしかない私を悲しませないように、自分の主観を明るいものにするために、間接的な配慮をしてくれるだろうとわかっている。

 


だからといって、自分はあなたの存在を認めるよと言ってしまわないくらいには、私のことを知ってしまっている。

 

 

 

もうだめだ。みんなそうなのかもしれない。私は他者の幸せを、自分と同等とまではまだ言えないが、確信を持って大事なことだと思っているし、私は自分の根本から他者の快楽と苦痛に価値を感じている。

でもみんなは違うのかもしれない。悲しいことに、そう考えたほうが辻褄があう気がする。

 


規範の正当性を認めながら、その規範に従わず、従わないことに一切の罪悪感を感じていないような態度を見ることがある。

 


これは程度の差こそあれ独我論なのだと考えると、辻褄があってしまうように、いまの私には感じられる。

 

 

 

私が私の真だと思う立場に従った行動ができないことも、どこかに懐疑があるから、どこかでどうでもいいと思っているから、そうなってしまうのかもしれない。

 


この線でいくなら、規範を理解する知性をもつ存在は、自分以外の世界の存在への確信度によって、その規範の重要性の認識を変えるのかもしれない。単純な対応ではないが、他者の利益の重要性を確信して完全に倫理的に振る舞う者にしか、世界の実在は確信しえないように感じる。

 


少なくとも、私には私だけではない世界の存在への確信があるのに、完全に倫理的に振る舞えていないのだから、どこかに欺瞞があることは確かだ。自分の利益を大きく評価していまうバイアスは確実にあるが、それだけでは説明できないほど私は倫理を無視しており、それは世界への不信なのかもしれない。

 


私が倫理的に行動しないことは、逆接的に私の世界への不信を高める。

 

 

 

 


生命倫理存在論と同等の気持ちを持って、これからは心の哲学にも向かうことになると思う。

 

 

一歩ずつ私の世界は生きづらいものになる。しかしその生きづらさを、その真実を見つめ抜いて初めて、より善いものを目指していくことができる。

 


真実を見つめる過程で私の世界は悪いものになっていくが、それが真実なのなら、それを受け入れた先にしか光はない。

 

 

2020.7.1 00:25

もずくと功利

 

最近もずくにはまっておりよく食べています。

今日も3個パックのもずくを6個、つまり2セット分食べました。

 

もずくってえらいですよね。これだけ食べても1パック9カロリーだから54カロリーです。カントリーマアム1枚分。

 

えらいなえらいなと思いながらもずくをすすっていたのですが、もずくのなにを私はえらいと感じているのでしょう。

 

 

カントリーマアムだって美味しいです。最近食べていませんが。しかしカントリーマアムは別にえらいとは思わない。

なぜならカントリーマアムが美味しいことは当たり前だからです。

 

それではもずくが美味しいのは当たり前ではないのでしょうか。恐らくそうです。そしてこの当たり前ではなさに、えらさの内容がありそうです。

 

美味しくて当たり前だと思うものの要素を考えてみましょう。そうすると私は「①カロリーが高い②値段が高い③動物性である」という要素を、美味しくて当たり前のものとして考えているようです。

 

このどれにも該当しない、例えばきゅうりなんかも美味しいです。しかしそれは当たり前ではない。きゅうりもえらいと私は思っています。当たり前でなければえらいと考えるのかもしれません。これはなぜなのか。

 

おそらくこの「当たり前」という表現がすこし曖昧でずれていたのかと思います。そのまま「えらくない」と表現したほうが正確だったかもしれません。

そうすると先ほどあげた美味しさが当たり前になる3つの要素は、えらくない3つの要素ということになります。えらくないのは、カロリーが高いこと、値段が高いこと、動物性であること。

どちらかというと痩せたく、お金もなるべくなら使わなくていいほうがよく、動物性食品は食べないほうがいい。

このように対応する自分の(高階の?)欲求に添いながら、それでもなお美味しさという快楽を与えてくれるというところに、食べ物としてのえらさを感じていたのかもしれません。

 

つまり美味しさではない善の(少なくとも悪ではない)性質を持つ食べ物に、美味しさとは重ならないわけではないが違う価値として、えらさという基準で価値を与えてたようです。

 

このえらさは美味しさとは違う基準ですが、しかしえらさを感じながら食べるものは、そうでないものよりも美味しく感じます。

 

つまりこのえらさという概念は、私が食べ物に対して下駄をはかせる気持ちでもあるのかもしれません。

 

実際人間の脳は脂質と糖質に美味しいと反応してしまうと聞いたことがある気がします。

カロリーの低い食べ物は、そういったマクロ栄養素的な美味しさの恩恵にあずかれません。そんな境遇にある野菜や海藻には、えらさという付加価値を加味して評価したい。アファーマティブアクションです。

 

その意味でえらさは是正的に付与され平等主義的に見えますが、目的として全ての食べ物を平等に扱うことを目指しているわけではないようです。

 

先に述べたように、他の悪を発生させない(もしくはより少なく発生させる)からという理由で、えらさは付与されます。

 

つまり功利を増進させるための装置なんですね。

 

味覚的な美味しさも、太らないことも、あんまり働かなくていいことも、他者を搾取しなくていいことも、最後のものは特に量として大きいですが、すべて良いことです。

 

そのような価値基準を上手く内在化していけると、自分の重視したい2階の欲望に沿った選択肢が、そのまま1階の欲望の働きとして選べるようになり、好きなように過ごすだけで結果的に良いことをしてしまう状態になるのかもしれません。そうなると有徳でもありそうです。

 

私はまだそのような自動善行状態には入れていませんが、食べ物に感じているこのえらさはもしかしたら、内在化と自動化の第一歩としてなのかもしれません。

 

もずくはえらい。

 

2020.5.28 22:50

自殺の何が"悪い"のか

 

 

死と自殺の問題は、私が哲学を勉強する2つの大きな動機のなかの1つだ。

 


知識も自分の考えの整理もまだまだ足りていないが、いまの時点での考えをブログとして書いておく。

 


勉強がまだ本当に足りないので、語尾が「思う」「気がする」「みえる」という主観的なものばかりになったが、これは「いまのところ私がそう思っているだけ」ということを表す逃げ(と誠実さ)だ。

 

 

 

 


日常的に「死は悪いことである」と述べられ考えられるとき、一般に以下の4つの害をまとめて1つのものとして扱っているように思える。


①死のそれ自体の害

②死に伴う本人の身体的な苦痛の害

③死に伴う本人の精神的な苦痛の害

④死に伴う周囲の精神的な苦痛の害


そしてこのように分類してみると、①のみが死の悪さであり、②③④は二次的なものにみえる。

また自殺に限って考えたとき、①以外は取り去ることのできるものだと思う。


まず②の害について、これは自殺幇助を認めることで限りなく小さくできると思う。表現に問題はあるが、安楽死で自殺すればいいように思う。

現在積極的安楽死は一部の国や地域で認められているが、その適用は治癒不可能な病や老いを抱える人間のみに、さらにその範囲でもとても厳しい条件を満たした場合に限られる。

積極的安楽死の適用範囲の拡大や規制の緩和は、望んでいないのに周囲に迷惑をかけるからと安楽死を選んでしまうケースなど、問題も容易に考えられるが、それでもそれにより減らせる苦痛はあると思う。


次に③について、これを取り去ることができるのは、熟慮の末に自殺がもっとも合理的な解決だろうと納得しそれを選んでいる人間だけだ。この場合③の苦痛は、②と④への心配という二次的な(そもそも②と④も二次的なものであるということを考えれば三次的な)ものがその大部分を占めるだろう。そのためそれらが解決されればここに問題はないのではないかと思う。


最後に④について、これも循環するようだが、②と③が解決されたとき、とても少なくできると思う。②と③が解決されているとき、残された者の苦しみは、その本人と過ごせたであろう好ましい経験の喪失のみとなる。現状④の苦しみは、死んだ当人の苦しみを想像すること、そしてそれを救えなかった罪悪感が大部分を占めていると思う。当人が苦しんでおらず、そして当人も他者の苦しみを望まないのだから、苦しむ必要はない。

もう彼/彼女とあそべないのだなという程度の、1番大きくても失恋と同程度の悲しみが正当かと思う。

 

 

つまり、他者から深刻に害され追い込まれたのでない、主体的に選択した自殺の場合、本当に生まれるべき苦しみは本当に少ないものになると思う。①の苦しみと、③④による若干の苦しみで済む。


そして①の苦しみについて、これは異議が容易に想像できるが、私は0だと思っている。


そのため②のように安楽死が認められ、④のようにこの記事の考えが周囲にも納得されたなら、私は死ぬことはそんなに悪くないことだと思う。

例えば10秒後に「安楽死の処置を受ける権利」と「私を知る人のこの記事への同意」が同時に与えられたなら、私は10秒後に死んで構わない。どちらかというとそれは望ましいことに思える。

 

そしてこのような考えが受け入れられたとき、世界は出口が整備されたという点で、より良いものになると思う。

 


自殺をしたいと考える者に対して、それを止めるために周囲が援助し環境を改善させることはもちろん良いことだと思う。

それによって自殺を望まなくなるなら、その者は追い込まれていただけであり、その状況からは救われた方が良いからだ。


しかし環境に関わらず、相対的には悪くない生を送っていても、それでも死んだ方が良いと考える者に対しては、苦痛を伴わない方法での死を提供することは必要なことではないだろうか。

 


死んだ方が良いと穏やかに納得している者の望みは、苦痛の少ない形で叶えられるべきではないだろうか。

 

 

 

 


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この記事は木村花さんの自殺に触発されて書いたものだ。しかしここで書いた自殺の無害さは彼女の場合には全く当てはまらない。

彼女の死は自ら選んだ自殺ではなく、他者の悪意により追い込まれ選ばされた自殺だった。分類し書いてきた全て種類の、とても大きな害が彼女や他者に降りかかった。

彼女の死はとても痛ましくまた許されないことだと思う。

ご冥福をお祈りします。

 

 


2020.5.23 23:26

パンデミックとレーシック

 

 

某疫病の流行もいよいよだなという感じですね。このような世界で、みんなはいかがお過ごしでしょうか。

 


私はといえば、緊急事態宣言の発令が決まった昨日、梅田でレーシック手術を受けていました。54万かかった。破産。

 

 


視力が本当に悪く(右0.02 左0.03)、コンタクトか眼鏡なしでは比喩ではなく生きていけないこと。

度が強いので眼鏡をかけると屈折で目がめちゃくちゃ小さくなり、それが嫌なのでほぼ毎日コンタクトを使うこと。

コンタクトを洗うことが日常生活のなかで最も嫌いな作業であるため、いつでも捨てられるワンデーを使っており費用がかさむこと。


この3点の合わせ技で、ICLかレーシックか、なんらかの視力回復医療を受けたいとは平時からそこそこ強く思っていました。


ピアスだったり脱毛だったり、自分の身体に手を加えることにあまり抵抗がないことも一因だと思います。

 

 


しかし1番受けたいと思っていたICLは50万ちょい、レーシックでも20万くらいはかかるようなので、まあ社会人になってからかなと思っていました。学生の50万ってほら、社会人の500万じゃないですか。

 

そう思っていたのですが、なぜいま540万である54万を払ったかというと、1つには大学院に行くため自分がいつになったら働くのかわからないということもあるのですが、主な理由はコロナの流行から所有の不確かさを再認識したことです。

 

こう書くと私がすごく悲観的で不安症のようですが、コロナに際しての現状としては、買い溜めに走ったり過度に感染を恐れて精神的に不安定になったりはしていません。

マイプロのセールでまとめ買いしてあったプロテインと、実家から送ってもらった米だけで半年くらいは生きられるし、元からインドアなのでネットとインフラさえ止まらないなら向こう3ヶ月家から出るなと言われても受け入れられる気がしてます。

 

 

精神は不安定になっていないと述べたところで、ではなぜコロナの流行からレーシックを受けるに至ったのか。

 

 

話が少し逸れますが、私は高校の半ばくらいまで、火事にはあうものだと思って暮らしていました。火事を特に恐れていたわけではないのですが、自分や家族の持ち物はいつでも燃えてなくなる可能性が、一生に1回くらいの確率であるものとして考えていました。持って逃げようと思っていたものは、時期によってゲームボーイだったり、PSPだったり、PCだったりしました。


本かネットか誰かに教えてもらったか、火事にあう確率はとても少ないことを知りましたが、長年の意識からか、それ以降も人と比べて持ち物にそこまでの信頼を寄せずに生きてきた気がします。火事にはあまりあわないことは理解しましたが、それでも物はいつかなくなるだろうと。

 

 


この持ち物に対する感覚を、国家や社会、貨幣のような大きなものに対しても私は同じように持ってます。そしてこの感覚は正しいとも思っています。

自分の意識は、これがなくなれば死と同義だと考えているので最後までなくならないものですが、あとは意識より少し落ちますが自分の身体くらいしか、所有として信頼できるものはない。

こう書くと、この言葉は好きじゃないですが、「思想強い」感じに見えると思います。しかし自分の意識と身体を信頼しているだけでも私は穏当なほうです。

 

そのような考えを持っていても、特に悲観的ではないので、コロナ以前はコンタクトや眼鏡が簡単に入手できないような世界に近い将来なるとは思ってませんでした。

いまもそんな世界になる可能性は高くはないと思っています。


しかしないわけではないなと思いはじめました。

 

 


最後まで持っていられるものとして、自分の目に課金することはとても合理的な選択だろうと思います。

 

 

 

いま私はこのように考えて、このようにしたということをただブログとして書きたかっただけで、不安を煽りたいわけではありません。

 

私の場合は元から受けたかったので時期を早めただけで、コロナで長期的に眼鏡やコンタクトの入手が難しくなるほど大きく世界が変わることもないだろうと思っています。


またレーシックには後遺症や合併症のリスクがあるようですし、私にも後からそのような症状が現れないとも限らないので、この記事はレーシックを勧めるものではなく、他の記事と同じく日記かエッセイとして読んでいただけると嬉しいです。

 

2020.4.7 21:05

眠り続ける

 

 

 


なにもしたくなくなったときに、ひたすらに眠り続けてしまう。

 

 

全ての責任から逃れるには、まず全ての期限を破る必要がある。

 

 

どうにもなにもできないときが、どうしようもなくある。

本当にだめなことだ。そうしてしまうことがまた精神状態を悪化させる。わかっていても、なにもできないときがある。

 

 

守るべき期限を破るまでの時間、まだ行動すればなんとかなるけれど、なにもできない時間。

この時間がとてつもなく辛い。辛いじゃなくてやればいいじゃないかと、そう思うがなにもできない時間。

 

 

この時間が、それがなくなるなら全ての時間が同時になくなってもいい思えるほどに辛い時間が、眠り続けることで限りなく短くできる。

 

 

眠り続けることで、次に起きたときにはもう何かが手遅れになっている。

 

それでも次の、なにかをしなくてはいけない時間が迫ってくる。

 

眠り続けることで、また次に起きたときには何かがもう手遅れになっている。

 

 

 

頑張ればできる、頑張れば間に合う間は常に頑張るかどうかの選択を強いられる。

 

しかし一旦手遅れになってしまえば、もちろんなにか不可逆に達成できなかったことは生まれるが、なにもしなくてもタスクが1つ減る。

 

 

 

そのようにして全ての責任を放棄して、全ての達成を諦めて、大抵は2週間ほど眠り続けていれば、ほとんどのことを取り返しがつかない状態にすることができる。

 

そこまで辛い時間を耐えて眠り続けていれば、どうしてもなにもできない状態からは、社会的な惨状はともかくとして抜け出すことができる。

 

 

眠り続けることができる。

10時間ほど眠って目を覚ましてしまっても、起き出さずまた目をつぶればさらに10時間くらいは寝られる。そしてこれを繰り返すことができる。

 

 

眠り続けることさえできなかったら、一度なにもできなくなったら辛い時間をやり過ごす手立てが全くなかった。恐ろしいことだ。

 

 

なにもできなくなったらなにもせず、眠り続けて、それでもなにもしたくなかったら、そのままなにもしなければそのうち本当になにもしなくてよくなる。

 

 

このことがあるから、なにもできなくなることをあまり恐れすぎずに、楽観的に生きられる。

 

 

眠り続けることができてよかった。

 

 

2020.1.13 4:47

本を減らす

 

物を管理することが苦手だ。

 

 

そのことの実例として、私は1日5回くらいは部屋の中でスマホを失くす。

 

 

寝転がっていて立ち上がるときに、なぜか枕の下に隠してしまう。

座っていて立ち上がるときに、なぜかテーブルの死角に隠してしまう。

 

 

 

隠してしまう傾向はわかっているから、探すのにそこまで時間はかからないけど、それでも多くの時間をスマホを探すことに費やしてきた。

 

 

 

そのような性質を自覚しているので、管理能力の不足を補う術として、持ち物を少なめにしておくことにしている。

 

 

 

ただそうは言っても現状として、本と服は少なめにできていない。

 

 

 

服は軽率に減らすと季節が変わったときに困る。

頭が悪いのでそのとき着そうに思えない、いまだったら半袖の服を意味なしと思ってしまうからだ。

 

 

そして服はやっぱりあれは要ると思っても、もう一度同じ物を手に入れることは難しい。

似たような物で良しとしても、金額が少し高い。

 

 

 

 

本の場合もあれは置いておけばよかったなと思うことはある。

しかし特に稀少な本を読む趣味はないので、すぐに買うなり借りるなりできる。

 

 

ただ読み終わった本が本棚に差してあれば良いが、そうでなければ全く忘れてしまうという問題がある。

 

本当に記憶力が低いので、置いておかないと本の内容はおろか自分がどんな本を読んだのか全く覚えていることができない。

 

 

 

それなので減らす分の本のリストでも、作っておきましょう。

 

メモアプリか手帳にでも買いておけばいいのだけど、本当に減らしますよという気持ちの表明としてここに書いていく。

 

買いなおせるぞの精神でどんどん売って古本屋を儲けさせましょう。

 

 

今回は売るのにこんなに苦労するのだから、もうむやみに買わないぞという気持ちを作るために、最寄りの古本市場ではなく少し上にある口笛文庫に売りに行こうと思う。

 

 

 

『もういちど生まれる』朝井リョウ

おやすみプンプン浅野いにお(返す)

『緊縛基礎理術』有末剛

「ハーモニー』伊藤計劃

『キオミ』内田春菊

『物陰に足拍子』内田春菊

阿房列車』内田百閒

『思いわずらうことなく愉しく生きよ』江國香織

『神様のボート』江國香織

きらきらひかる江國香織

『ホリー・ガーデン』江國香織

『ボクはこんなことを考えている』大槻ケンヂ

『あつあつを召し上がれ』小川糸

薬指の標本小川洋子

檸檬梶井基次郎

『ペスト』カミュ (返す)

センセイの鞄川上弘美

『乳と卵』川上未映子

小林秀雄ー近代日本の発見』佐藤正英

タルトタタンの夢』近藤史恵

『ヴァン・ショーをあなたに』近藤史恵

『マカロンはマカロン近藤史恵

堕落論坂口安吾

『一年ののち』サガン

『食味歳時記』獅子文六

『ロボッチイヌ』獅子文六

『ぼくが猫語を話せるわけ』庄司薫

『絶対内定2021』杉村太郎

『東京さんぽ図鑑』スタジオワーク

『刺青・秘密』谷崎潤一郎

『陰翳礼讃』谷崎潤一郎

『蒲・重右衛門の最後』田山花袋

『旅のラゴス筒井康隆

ビアンカ・オーバースタディ筒井康隆

『捨てられないTシャツ』都築響一

鶴見俊輔全漫画論1・2』鶴見俊輔

リボンの騎士1・2』手塚治虫

トム・ソーヤーの冒険』トウェイン

『思考の整理学』外山滋比古

『乱読のセレンディピティ外山滋比古

『三酔人経綸問答』中江兆民

『李陵・山月記中島敦

『頭の中がカユいんだ』中島ラモ

『私という病』中村うさぎ

阿弥陀堂だより南木佳士

『こぶしの上のダルマ』南木佳士

草枕夏目漱石

虞美人草夏目漱石

『こころ』夏目漱石

『それから』夏目漱石

彼岸過迄夏目漱石

『門』夏目漱石

吾輩は猫である夏目漱石

『円卓』西加奈子

通天閣西加奈子

恋愛論 完全版』橋本治

『御不浄バトル』羽田圭介

車輪の下』ヘッセ

『猫語の教科書』ポール・ギャリコ

『異性』穂村弘 角田光代

『不道徳教育講座』三島由紀夫

ヴェネツィア』宮下規久朗

風の歌を聴け村上春樹

赤毛のアンモンゴメリ

『日本の昔話』柳田国男(返す)

『風味絶佳』山田詠美

『放課後の音符』山田詠美

石に泳ぐ魚柳美里 (返す)

『サピエンス全史上・下』ユヴァル・ノア・ハラリ

『それからはスープのことばかり考えて暮らした』吉田篤弘

『女子の生きざま』リリー・フランキー

 

 

2019.12.22 14:46

『JOKER』Todd Phillips

 

 

あまりに話題だから、これは予備知識が増えちゃう前に早めに観た方がいいぞと思っていた。

 

 

 

そんななかで、昨日の夜の予定がちょうどよく流れたので観てきました。

 

 

チケットと飲み物とポップコーンで1800円なのでレイトショーは最高の娯楽です。

 

 

 

観る前に主にTwitterで「俺は(俺たちは)ジョーカーになり得る」みたいな感想をよく見た。

 

 

 

だから暗い人間がピエロメイクして悪党(社会的強者)をバンバン殺すようになるみたいな話かなと思っていた。

 

 

 

その予想は当たってるは当たってるんだけど、ジョーカーを観て「自分もジョーカーになり得る」なんてことは思えなかった。

 

そう思ってしまってはいけないと思った。

 

 

 

私たちは、社会的強者だ。

 

 

 

いまは学生の身分でそんなにお金はないかもしれない。

でも間違いなく私たちはジョーカー側ではなく、ウェイン側とまでは言いにくいが殺される3人のエリート社員の側だ。

 

 

あるいは、欲望され拒絶する女性(この映画では隣人の女性)の側だ。

 

 

 

被害について人はよく認識できるけれど、加害について人は無意識的に行なっている場合が多いと思う。

 

 

 

自分の受けた被害、虐げられた経験からジョーカーに感情移入する。

そうして美しく映像化された弱さに自己投影して気持ちよくなることは簡単かもしれない。

 

 

 

しかし選民意識や思い上がりではなく、事実として、自分が恵まれた環境にあり能力があることを認識することは大切だ。

 

弱者ではないのに、自分を弱者だと主張してしまうことは弱者に提供されるべきだった有形無形のリソースを奪うことになる。

 

 

 

自分のことを不当に低く見積もることは謙虚でも、卑屈ですらなく、無責任なことではないかと思う。

 

生きている限り必ず、他者に対して害は与えてしまう。

 

しかしそのことを念頭に置くことで、減らせる加害は必ずあると思う。

 

 

 

 

ジョーカーを傷つけた人間には、必ずしも悪意があったわけではなかった。

 

 

 

ただ想像力が足りず、自分の加害に考えが及ばなかった。

 

 

 

格差や階級闘争だったり集団心理、映像美やジョーカーのビジュアルと煙草のかっこよさ、他にも語るべき点はあるだろう。

 

 

 

私が特に感じた点は、被害/加害の意識の非対称性と加害の意識の重要性だ。

 

 

 

加害の意識を持つには想像力が必要だとしたが、この想像力を持ちまた加害を減らそうと努力するには、頭の良さと共感能力が必要だ。

 

 

 

私は自分の幸福を1番に評価してしまうけれど、他者のそれにも十分に価値は感じる。

 

理想としては他者の幸福も自分のものと全く同じように評価したい。できていない。

 

しかし共感能力のない人間というのは意外なほど多くいて、他者の幸福に価値を感じないどころかマイナスにさえ思う人がいる。

 

 

この場合はいくら頭が良くても、加害への想像力が働いても、その加害に悪を感じない。

 

ジョーカーに出てくる「金持ち」たちは、想像力が働いていない場合も多いが、その他はこの状態だったように思う。

 

 

 

頭が良くて共感能力のある、つまり賢く優しい人間が、全く出てこなかった。

 

 

そういう人間がいなかったことがジョーカーの誕生に繋がったのかもしれない。

 

 

 

 

私たちは強者であり、ジョーカー側ではない。

 

 

そのことを正当に認識して、賢く優しい強者を目指しましょう。

 

2019.10.10 15:11