生活の倫理

生活の感想

ネイル・気分・循環


1ヶ月ぶりにネイルを塗った。爪を綺麗にしていると、適当な格好をしていてもなんとなく格好がつく。そんな気がする。そんな気がするということが、実際そうであることよりもずっと大切なことだ。


思い込まないと生きていけない。生きていかなくてはいけないわけではないが、死ねないという条件の中では、生きていけないよりは生きていけたほうがいい。


1ヶ月ネイルを塗れなかった。私はほぼ常にネイルをしているので、デートの予定もあった中でのこの事実は、それなりに大きい。


冬に負けてしまう。この寒さ、暗さのなかで、それでも元気でいることが私にはできない。苦手な厚着をしてまで、苦手な暖房をつけてまで、生きていたいと思えなくなる。厚着をして暖房をつければいい。そんなことはわかっているのだが、絶えず毎日それをすることはできない。


習慣的な行動が苦手だ。生きていたくないということに関わっていると思う、これをずっと続けるのかと思うと、いますぐに全てをやめたくなる。断絶を願うし、断絶はあると思っている。火事は起きるものだと思っていた。どこにも家を買いたくない。


爪はすぐに伸びる。身体は入れ替わっていく。また新しい色をのせなくてはいけない。このことは嬉しい。


色の名前はWILD WINGSで、ある時期に恋人のことを文鳥だと思っていたので、塗ってあげるためにプレゼントしたものだ。


自分のために料理ができない、自分のために室温を整えられない、自分のために服を買えない、自分のために爪を塗れない。これらは全て冬にだけ起きる。夏は全てできる。夏は9割自炊だが、冬は1割だ。夏は自分の料理が一番美味しい。冬は自分で作ったものが一番美味しくない。


熱く光に溢れる世界と、冷たく暗い世界。この繰り返しに慣れることができない。世界は一方向に進んでほしい。回転する、何度もやり直す、有機的な世界。


男性の先輩から、ネイルをしている女性をみると僕には無理なんだろうなと身構えてしまうと、言われたことがあった。そう思うならそうなのだろう。そう思うということは、実際そうであることよりもずっと大切なことだ。


気分のほうが事実よりも大事だ。事実は無限にあり、事実だと思っていることは間違いかもしれない。気分はひとつしかなく、間違えることはない。気分を通してしか、世界を眺めることはできない。


季節性情動障害というものがあるらしく、自分はこれなのだろうと思っている。これは妊娠可能年齢の女性、特に20代前半の女性の有病率が高いらしい。


冬に自分のために何かをすることは難しい。他人のためにネイルを塗ることができた。爪がブロンズに輝いている。


少なくとも3年、症状が繰り返している。春になるとこの気分が終わることはわかっているが、同時に、冬になるとまたこの気分に戻ることがわかっている。


絶望の終わりがみえるが、終わった後にまたくる絶望ももまた、先にみえている。

 

2022.02.05 14:46

存在について

 

私は私の利益を考えるならば、生まれてこないほうがよく、そして生まれたとしてもなるべく早く死んだほうがよい。このことをはっきりと考えだした大学3回生の冬、私は遺書として、この主張を論文にまとめようと考えていた。同じことを考えた人間が、数年前まで韓国に存在し、そして完遂したことを後に知った。

そのことを知った4回生の夏には、私は冒頭の考えを強く持ち続けていたものの、それでも生きようと考えていた。私が生きてこの主張をしていくことで世界から減らせる苦痛の量は、私がこれから感じ発生させる苦痛の量を上回るだろうと考えていたからだ。より大きな価値である、より大きな苦痛の削減。そのために私は我慢して生きようと考えていた。

この考えが変わったのは4回生の冬だった。この少し前に大きな悲しみと自信の喪失があり、世界から意味が失われ、何もできなくなってしまった。苦痛を生じさせ得る全てをなくさなければいけないという価値観を変わらず持ち続けながら、その価値を実現するための能力を全て無くしてしまった。こうなってしまうと、もはや我慢して生きることはより大きな苦痛の削減には結びつかず、なるべく早く死ぬことが、自分にとっても世界にとってもよりよいことだと穏やかに納得していた。

より大きな苦痛を減らす能力があるために苦しみながらでも生きる意味がある状態から、より大きな苦痛を減らす能力がないために生きる意味がない状態へと変わった。前者は望ましい状態で後者はそうでないと感じるかもしれないが、私にとっては、どちらでも同じことだった。

しかしこの願いも実現されなかった。生物的な身体は、私の幸福を少しも考えていない。穏やかに納得して死を望む人間の願いが叶えられないこと。これは最も大きな害悪の1つだ。このときばかりは、世界への愛が失われてしまった。私をここまで苦しめる世界を、私はどうして自分を犠牲にしてまで、よりよいものにしようとしていたのか。世界への愛が失われたことで、私を動かす動機がいよいよ失われてしまった。もう善を願わない。愛を感じない。美を愛せない。善を失ってしまった。愛を失ってしまった。美を失ってしまった。それでも死ぬことができなかった。

私は私の価値観に従って、価値を実現して生きることも、価値を実現せず死ぬこともできなかった。そのことを受け止め、なるべく穏やかに死ぬまでをやり過ごそうと決めたのは、修士1回生の春だった。世界から意味は失われたままだが、それでも死ねない以上は世界は続いてしまう。意味が失われた世界でも、より悪い状態を避けるという消極的な動機のみによって、穏やかに働いていける職業を考えた。何も楽しくなくても、それでも何も苦しくないわけではない。その苦しみから逃げるための選択だった。自分の価値観の全てに背いて、全てに失敗して、最も意志の弱いものとして、もう2か月ほど生きた。

この考えは今後どう変わっていくのだろうか。

2021.07.07 03:31

縛り付けて織り込む


いま『三体Ⅱ 暗黒森林』を読み終わった。

読み終わって、去年のちょうどいまくらいの時期にⅠの『三体』は読んだのだということを思い出した。人に勧められて読んだのだった。


インターステラー』も、同じ人に勧められて観た。なんだったら一緒に観た。Netflixで観た。『テネット』を観に行ったのは、『インターステラー』の監督の新作だったからだった。

 

『三体』も『インターステラー』も、後続の作品を追うようになるくらいに、好きな作品になった。


しかしその人とはもう連絡をとっていない。『三体』をきっかけにたまたま思い出しただけで、その人のことを考えることすら、全くなくなってしまった。

一年も時間が経つと関係は変化する。自分自身の考えていることや日々の生活も、一年前とはまるで違う。

それでも世界は一貫性を持って確実に一年進んでいて、小説の続編は翻訳されるし映画監督は新作を撮るし、私はそれを読み観る。

 


自分は一年間でまるっきり変わり、少なくとも変わったつもりになり、一方で進んでいるという実感はあまりない。ただ変わっている。

世界の側はしかし連続していて、固く結びつき合ってこぼれ落ちないように、大きな変化はなくとも確実に進んでいるように感じられる。

変わらない世界が全体として鈍く進んでいくのに、変わり続けている自分はしかしそれに取り残されている。

 

このところ、恐らく10月の終わりごろから、異邦人の感覚がある。世界がよそよそしいが、離人症とは少し違う。


2年ほど前に、1人で1週間ほど香港に住んでみたことがあった。尖沙咀に拠点を定め、電車に乗り散歩しご飯を食べて過ごした。

そのときの、目立ってはいないが馴染んでもいない、そして放っておかれている感覚は、好きでも嫌いでもなかったが、新しいという意味で良いものだった。

このときの感覚に近いものが、このごろ1人で過ごす、人と居るとき以外の全ての時間にある。

 


生活を縛る大きな集団に属していない生活が初めてだからかもしれない。

高校以前はそれは家族であり学校で、大学に入ってからは友人やサークルやバイトだった。大学の授業や勉強が占める割合は、微々たるものだった。


いまの生活は時間や空間的な拘束が、いままでと比べてありえないほどに弱い。

自分の将来したいこと、そのためにいまするべきことはいくらでも浮かぶが、そのほぼ全ての作業は自宅で1人ででき、そうするのが1番効率がよい。

週に2回は大学に行くが、時間の決まったタスクはそれくらいだ。授業が週2日であることは、大学4回生として取り立てて少なくはない。しかし、これ以外に習慣的なタスクが本当にない。これが地に足のつかないような感覚につながっているように思う。


大学院生に向いていないのかもしれない。すでにこのザマなのだ。院生の先輩にこの悩みを話しても、解決が見えなかった。実家で暮らしていたり、下宿生の先輩でも、この生活は全く苦痛ではないようだ。強がりには見えず、その気質は心底うらやましかった。

 

自分のある程度社会と繋がっていないと落ち着けない気質と、接続の薄いいまの生活、世界は私を置いて結びつき鈍く一定に進んでいくように見えること、あとは単に日照の少なさと気温の低さ。これらが一体となって私を襲う。

 

就職は恐らく、時間を拘束して私に安定した生活を送らせ、その業務を通じて私を社会に織り込み、生物としての私をとても元気にするだろう。

しかし私の最も高次の目的は、全ての苦痛の完全な除去と予防だから、自分が元気になったらまた、研究者の道を志してしまうだろう。

 


最終的にしたいことが研究だということがわかっているが、私には研究生活への生物的な適性があまりにない。


分析は済んだとして、それでどうする?


2020.12.2 22:45

適度な趣味性


最近料理や食文化についての本をよく読んでいる。

今日読み終わったのは、三浦哲哉の『食べたくなる本』だった。これはあとがきでも筆者によってそう評されているが、「料理の本の本」だ。メタ料理本である。

 


特に丸元淑生については筆致がとても鮮やかになるのだが、この本の語り口からは、筆者が料理研究家たちに対して、畏敬とともに滑稽さも大いに感じていることが伝わってくる。

その一例として、「かつお節削りを削れ」(p.14) という丸元淑夫の指令がたびたび紹介される。鰹節を削るための鰹節削りの、その刃を自分で研ぎ、木の部分も真っ直ぐに保たれるようにカンナで削り整えたまえという指令だ。

 

また私も好きでよく読む有元葉子についても、もっぱら少量でそのまま飲んだりかけたり素材のよさを活かして使われるような最高級のオリーブオイルを、それを揚げ油にして揚げ物をせよという指令が紹介される。


これらの指令は、もちろん彼らの食へのこだわりからくるものなのだ。しかし筆者も感じ積極的に描いているように、そのような極端な食生活の実践は、滑稽なものにも感じられる。


食は高い趣味性を持つ営みだ。音楽や映画、読書などの趣味と並ぶものとして、料理やグルメ、お酒が趣味であることは自然に受け入れられる。衣食住への関心の高さには、美的な評価が与えられる。

しかし行きすぎた執着は、鰹節削りを削ることは、滑稽になってしまう。


この行き過ぎの線引きが、最近はよくわからなくなっている。行き過ぎた執着ではない適度な趣味性が、どれくらいなのかよくわからない。

好きなようにしたらいいのだとは思う。しかし職を持たずぶらぶら勉強している大学院生(予定)の立場である私などは、適度となる趣味性がとても低い水準なのではないかと、最近は感じてしまっている。

自分の趣味的な行動について、ぶらぶらしていないで論文の1本でも読め、その金で本を買えという気がしてしまうのだ。


例えば朝の15分を使ってメイクをして大学に行っても、肝心の哲学がまだ未熟なのだから、その15分を使ってもう少し予習をするべきだろう。そういうことになってしまう気がする。


もちろん学生だからといって一切の贅沢が否定されるなんてことはありえないし、程度の問題であって、何事もほどほどに楽しむのがよいのだろう。先輩の院生や研究者たちを見ていても、専門以外の趣味的な事柄にも精通している方が多いように思う。

しかしそれでもわからなくなってしまう。私のほどほどは合っているのか。君のほどほどはどれくらいなんだ。


特に酒という嗜好品について、これは人と飲むときだけ飲むという方針に基本的にはしていたが、3日ほど前のとても酷い二日酔いの影響もあり、考え直している。


酒を飲むと認知能力は落ちるため、自分だけ酒を飲んで相手が飲んでいない状況なら、自分は楽しくなりつつ明晰な相手と話せるので、これは1番よい状態だ。このようなことを、下戸の友人に言うことがある。自分勝手な話だが、それなりに本気でそう考えていた。

しかし、これは怪しいのではないか。

明晰な相手の方がよいというのはいいとして、自分が酒を飲んでおり認知能力が落ちていることは、楽しいことなのだろうか。


経験的にいうと、楽しいような気がする。楽しいことが多かったからだ。

しかし友だちと飲みに行くことと、友だちとパフェでも食べに行くことを比べると、楽しさにそこまで差がないような気もする。


ヴォルフガング・シュヴェルブシュの『楽園・味覚・理性』を読んでいる、著者の名前がかっこいい。この本はヨーロッパの嗜好品の歴史について書かれた本だ。ドイツ人なのでドイツについては少しだけ詳しく書かれている。嗜好品として香辛料や酒やコーヒー、タバコが、覚醒と酩酊という観点からプロテスタンティズムやカトリシズムと関連付けて語られる。

 

私はこれまで、趣味性や社交という観点から、酒と酩酊を肯定してきた。しかしそれらは、コーヒーや紅茶という覚醒をもたらす嗜好品でも満たされる。

全ての趣味的な行動を否定する必要はないが、覚醒の明晰さと勤勉は愛するべきだ。


そうとはいうものの、それでもたぶん、飲酒を全くやめるということはしないような気がする。

これは適度がわからなくなりつつも、それでもメイクをするし服を買うし美味しいご飯を食べることとは、少し違うことである気がする。

 

何事も適度に軽やかにやっていきたい。

その望みが果たされることはあり得ない。

 

 

 

(下書きに眠っていた記事を2020.12.2に公開)


2020.11.20 23:44

社交による快楽の累乗

 

 

私の独我論者への恐怖は、自分の存在をものすごく小さなものにされるような、貫かれる無力感によるものだった。

同じような恐ろしさを2ヶ月前にも、また別の友人から与えられた。この友人は、私の心は認めているが、あらゆる快楽(と苦痛)に価値を認めていなかった。


この2つの恐ろしさが同じ理由を持つことに、山崎正和『酔いの現象学』の一節を読んで気がついた。

この恐ろしさの解明は、私の快楽の探究に繋がる。そしてその共有は、みんなの快楽の探究に繋がり、それは私の快楽の探究に繋がるのである。

 

 

私は快楽(と苦痛)に価値があると認めてる。そして、自分の快楽を多少は大きく評価しているが、他者の快楽もその価値を完全に認めている。


独我論をとる心理学徒の友人は後者を認めない。今回書くのは、前者を認めていない友人のことだ。それほど多いわけではない友人のなかから、道筋は異なりながら2人が、私の快楽の価値を認めていなかった。いったい私がなにをしたというのだ。

 

 

友人が快楽と苦痛に価値を認めていないと気がつく少し前に、最近功利主義にとても共感しているという話をしてくれた。それはいいねと話を聞いていたが、しかしどうにも違和感があった。功利主義の理解がおかしいわけではない。それを私が本当に判別できるのかという問題はあるが、とにかくそこには違和感はなかった。


この違和感は解消されないまま、近況などを報告し合ううちに、仕事についての話になった。彼女は学生時代からデザイナーとしても働いているため、仕事の話を聞けるのは面白いことだ。


彼女は仕事の目的について、働いて成果物を作り、その成果物がよいものなら他者に喜ばれ、それによって自分の評価は上がり、また次の仕事に繋がると話していた。

それはそうなのだろう、それで目的はなんなのかと聞くと、同じ内容を言葉を変えて伝えてくれた。彼女はコミュニケーション能力が高いのだ。

そうではなく、成果物も他者の喜びも自分への評価も目的には見えず、しかし仕事それ自体も目的ではない。彼女がデザイナーという職業自体を目的とする態度を批判することを、私は知っていた。それではなにが目的なのか。


そのことを伝えることができたとき、確かに目的はなく、そして実は自分は幸福や感情に価値を感じていないのだと教えてくれた。

ここには書かないが、具体的な考え方やエピソードを聞いて、本当にそうなのだろうと私には思えた。

 

 

それではなぜ朝からわざわざ電車に乗って、私と遊びにくるのかと聞いた。私は快楽のために友人と遊んでいるが、友人はそうではないのかもしれないと心配になったのだ。


遊ぶことも話すことも楽しく感じていることは信じてほしいが、しかしこの楽しさに価値は感じていない。話した内容やここで見た風景から、今後の自分の活動や成果物への良い影響があるだろう。また自分と遊ぶことでかなねにも何か新しいものを与えて、それが後に繋がるかもしれない。そうなればいいと思っている。そう話していた。

他者との交流の本質的なよさである。しかしそれでは私は嫌だった。そこにはやはり、最終的な目的もない。


私は私の快楽と、この友人の快楽を合わせて、この時間の喜ばしさを感じていた。相手もそうであると信じていたために、相手の感じる快楽は合わさったあとの私の快楽と相手の快楽を合わせたものであり、そのため高次になるにつれて累乗的に増幅するものに感じていた。

しかしその増幅は、友人が快楽に価値を感じていないことによって不可能になった。私はそれが悲しいのだと伝え友人は納得してくれたが、だからといってすぐにどうなるものでもない。

 


快楽の増幅は主観的にはしばしば発生するものであったため、私は友人やその他の関係から大きな快楽を得つつ、楽しく暮らしていた。


しかし私が無限に累乗されるような、増幅する快楽を感じられるのは、相手も自分と私の快楽とその価値を認めて、それを想像してくれるとき、そのときだけである。それが阻害されるために、他者の心を認めない態度と、快楽を重視しない態度に、深刻に恐怖を感じていたのだった。

 

これが最初に書いた、2つの恐ろしさの共通の原因である。このことには、曖昧にはおそらく私は気がついていた。しかしはっきりとわかったのは、飲酒の快楽と社交についての、以下の文章を読んだためだ。

 

 

この意識(自己を客体化する第二の意識)が快楽に耽溺する第一の意識を見下ろすことによって、自己の全体は幸福な自己を自覚できるのであった。

だがもし、自己が自己の幸福を確認して幸福になれるのであれば、そこに他人の自己がともに参加して肯いてくれれば、幸福はどんなに深まることであろう。(中略)社交の場とは、まさにこの意味で人びとが互いの快楽を確認しあい、確認する主体の幸福な目覚めを共有する場所だと見ることができるのである。

山崎正和『酔いの現象学』pp.196-7

 

 

酒を飲み快楽を得ながら、それを観察する高次の意識によって幸福を感じる。この高次に感じる幸福は、社交によって他者の快楽を観察しまた他者から快楽を観察されることで、幸福な目覚めと形容されるほどに深まる。


飲酒と社交についてここまで考えて実践していなかったが、この相互の観察によって深まる快楽は、社交一般に言えることであると思う。そしてそれこそが、私が友人関係において重視するものであるために、その阻害が大きな恐怖の対象であったのだ。

 

 

快楽の増幅は頻繁にあることと思っていたが、考えてみれば条件が多い。この2人の友人に限らず、これまであまり起きていなかったのかもしれない。

主観としては起きていたのだが、この増幅は主観のみで起こせるものではないため、起きていなかったと捉えることが正しいように思う。

単純な快楽ならば、それを私が感じた時点で価値であるため、あとからあれは起きていなかったとは思わない。しかしこれに限っては、おそらく起きていなかったのだ。

 


増幅を確かめる術はあるのだろうか。

 


2020.9.16 03:47

美もあるのかもしれない


価値について深刻に考えるようになって以来、ここ9ヶ月ほどの間、私は本質的な価値は快楽と苦痛にしかないと考えてきた。

 


これは直観の問題でもあるが、だからみんな違ってよいとは思わない。私のこの価値についての直観こそが正しく、そのため全員を説得してまわるつもりだった。

 

そしてこの価値に同意されたとき、その最大化を目指す行動をとらない理由として考えられるのは、優しくないか頭がよくないかのどちらかだと思っていた。

 

もちろん私自身も、常に価値の最大化を目指す行動をとっているとは全く言えない。その理由はやはり、私が優しくないか頭がよくないかのどちらかだと考えていた。

しかし私が最も強く得たいと願っている性質は、優しさと頭のよさだ。

そのために、なるべく価値を最大化することを目指すように動機づけられていた。

行動がそのまま道徳規範から動機づけられているのではなく、優しく頭がよいならばそんなことはしないのだからという、徳倫理的な回り道があった。

 

例えば、私は畜産物を食べることに嫌悪感は全く感じないし、美味しいので食べたい。

しかし優しく頭のよい人間は、さすがに畜産に与することをよしとしないだろうという理由から、なるべく与さないようにしていた。

 

 

 

しかしこの1ヶ月ほどの間に、この説明は間違っているというか、不完全なものかもしれないと思うようになった。


美もあるのかもしれない。

 

 

価値についてこの9ヶ月ほどは、道徳的なものばかり考えていた。そして道徳的に本質的な価値は、快楽と苦痛だけだと思っていた。


しかしこんなに道徳ばかり重視するのは、私にとって特殊な精神状態であると気がついた。

善くあることになど全く興味がなかった。宿題は出さなければいけない。人に嘘をついてはいけない。スカートは膝より短くしてはいけない。机の上に寝転んではいけない。すべてそんなことはないと思っていた。すべて守っていなかった。いまも守っていない。


天賦の道徳観によって、間違った規範を退けて生きてきた。単純に楽しく生きようとしており、快楽と美を重視していた。プロスポーツを例外として、大抵の趣味性の高いことが好きだった。

 


自炊で畜産物を断つことには、いまはもう辛さを感じない。殺すことに問題はないという特殊な観念を持っているために、魚は避けていないという理由もある。

 

しかし美味しいと噂される店に行くときには、少しの抵抗は感じながらも、畜産物も食べてしまっていた。

このときの内的な言い訳として、これまでは社会的な不安をあげていた。しかしそれだけなら、飲み物だけにしておくとか、いくらでも方法はある。なぜそうしないのか。

 

この味を知っておくことは、文化的素養を高めるために必要なことなのだ。そのような考えが自分のなかにあることには気づいていた。

そしてこれは私の、自分の利益を過大に評価してしまう傾向性のためであり、合理性の欠如だと考えていた。

しかしそうであるなら、自分の利益を過大に評価するなら、自炊で畜産物を断っていることに説明がつかない。自炊における傾向から、私が外食の際の判断において、畜産動物の苦痛を自分の快楽のみを理由に無視しているとは考えにくい。

 


ここで動物の苦痛を超えさせる価値として働いているのは、私が趣味性や文化的素養という言葉で認識していたものである、美なのではないか。

 

単純に快楽と苦痛を比較考量するとき、ほとんどいつでも合理的な判断を行い、畜産動物の苦痛を避けることができている。

しかし、美と苦痛を比較考量するときには、畜産動物の苦痛を避けない選択をしてしまうことがある。


これは美という善とは違う指標の価値を認めていたためかもしれない。

 

それでも、美のために他者の苦痛を容認することには、問題を感じる。

美が道徳とは異なる価値を持つとしても、それでも苦痛を超える価値には、なるのかもしれないがなってほしくはない。

しかし、私の自炊の際と外食の際の判断の不一致について、美という指標からの説明しか思いつかない。

 

 

私が善と美に対して感じる価値の大きさについて、これは時期によっても差があるのかもしれないとも思う。

最近は美のブームが来ているため、美味しいお店を巡りたいなという気持ちが復活してきてしまっている。服も家具も買いたいし、活字より雑誌や画集や図鑑をよく見ている。

しばらくの善ブームの反動かもしれない。それならば、食べ物以外は好きにしたらいいと思う。

 

しかしさすがに、畜産は発生する苦痛が大きすぎるので、好きにしたらいいとは思えない。とはいえいろんな美味しいものを知りながら生きていきたい気持ちが、強まってしまっている。

 

この気持ちをどうしたものかと思いながら、とりあえず畜産だけは避けた美に興味を誘導しつつ、暮らしている。

 

2020.8.23 17:38

理論は机上で空回るのか?

 

善悪と似た意味での快楽と苦痛について、差し当たりの具体的な作業に支障が出るほどに、考えてしまっている。このような精神状態は、去年の暮れごろから今年の春にかけての、私の精神が大きく不調になる時期の直前にもあった。

 

そのときの、いまと同じような精神状態のきっかけは、功利主義と動物倫理を学んだことだった。具体的には伊勢田哲治さんの『動物からの倫理学入門』を読んだことだ。読みながら取っていたノートによると、去年の11/26から12/3にかけて読んでいたようだ。

この本を読んだ理由はおそらく2つあって、1つめに「君はたぶんこっちの方向だろうからこれを読むといいだろう」と池田さんが勧めてくれていたことと、2つめに吉沢先生に出会ったことだ。この人がそのように考えて、不便を受け入れてまでそのように行動しているのなら、それが正しいのだろう。そう感じてから学びはじめたので、一般に見られるようなこの分野に対する嫌悪感がない状態で始められた。このことはいまから考えると、とても良いことだったと思う。

この分野は私の精神をとても大きな不調におとしいれた。自分の大きく弁解のしようのない加害を初めて自覚したことはもちろん大きい。しかしそれ以上に、それでも自分の欲望を制御できないことに絶望した。

 

快楽と苦痛を感じることのできる全てのものの、快楽と苦痛にこそ価値があり、それ以外のものには本質的な価値はない。この考えは私の直観にものすごく合致している。それに加えて、その価値のためには合理的に考えなければいけないということに、方針としての正しさの直観もある。

この一番根源的な直観のことを、新川先生は抵抗できない直観と呼んでいた。先生にとっては、意識と世界のつながりが抵抗できない直観であり、最も守りたいものなのだろうと思う。この抵抗できない直観が、何を考えて生きていくかについて大きな効力を持つのだろう。

 

哲学や形而上学は、特に私が好んでいる分析哲学という大きな括りに属するものは、実際の社会において意味がないと考えられることがある。私も例えば、新種の昆虫を見つけることにどんな意味があるのかわからない。楽しいのだろうとはわかるが、目的があまりわからない。だからある学問について、それを外から見ると意義が理解しにくいということは理解できる。

しかし、哲学者が哲学を実際の生活と分けているように見えるとき、そこでは何が起きているのだろうか。

 

動物倫理の話をすると、反射的に警戒のような姿勢をとらせてしまうことがある。だから最近は、直接的にその話はあまりしないほうがいいのかもしれないと考えている。話をしないほうがいいというのは、大きな善悪の話ではなく、私の生活上の問題としての場当たり的な指針だ。その偏見を受け止める強さは私にはまだない。

そしてまた、私は私自身で納得できるほど倫理的な生活ができていない。倫理理論の正誤について話すために、そのときに取る立場に話者が真に同意しており完全に従っている必要はない。

しかしこの分野に限っては、そっちこそどうなんだ主義と呼ばれる詭弁的な論法に、私はダメージを受けてしまう。このそっちこそどうなんだ主義者は、この分野のことを考え話すとき、私のなかに繰り返し現れ、私の私への信頼を失わせる。この信頼は、私の精神にとって日照と睡眠の次に大切なものだ。そのため自分の精神の健康のために、ひとりでいるときは実践したほうが良いことが、この8ヶ月ほどでわかった。ひとりで家でご飯を食べるときは、何の問題もなく実践できるからだ。しかし人といるときは、気にしないようにしている。気にしないようにしてしまっている。社会的な不安のためだ。

このブログをわざわざ読んでくれる人は、私が関わりを持っている人のなかでも、私に好意的で興味を持ってくれている人なのだと思っている。おそらく私はこれからも、あなたたちに嫌われることを恐れ続ける。私はあなたが私が正しいと思う理論に同意しなくても、そのことによってあなたを嫌いにはならない。それと同じように、私がどんな理論に同意していても、そしてそれなのにその理論に従っていないときがあっても、それを非難しないでほしい。

これはそうしてほしいというお願いであり、そうするべきだということではない。

 

去年の年末はこのことを突き詰めたために、自分を含めた人間への信頼を失った。世界から光がなくなった。いまも光はあまりないと思っているが、光を目指す指針が少しだけ固まってきたので生きられるようになってきた。

 

知らなければそれで済んでいた非常に大きな恐怖が与えられ、それに対処しなければ生きられなくなること。これは宗教の構造とどう違うのだろうか。

 

もしかしたら、哲学者がその理論と生活とを難なく分けられるかどうかは、抵抗できない直観や非常に大きな恐怖といったものの解決を目的としているかどうかによるのかもしれない。これはどちらがいいということではなく、ただ起点の違いがあるという理解だ。

抽象的なことをひたすらに論理的に考えて答えを出そうとする姿勢は、一見すると大きな恐怖の解決を目指していない、生活と離れたものに感じられる。しかし、実は大きな恐怖の解決として、合理的な手段を取ることは全くおかしなことではない。自分の複雑な感情や恐怖を、複雑なままで表現することにも意味はある。しかしその解決を目指すならば、多少単純化してしまうかもしれないが、論理を固めることにはとても大きな意味があるのではないかと思う。

 

2020.7.19 13:46